【抜粋】原爆投下は正しかったのか?米国の言説を歴史的に紐解く(2020/2/8土@神戸)

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非核の政府を求める兵庫の会は2020年2月8日、神戸市外国語大学英米学科准教授の繁沢敦子さんをお招きし、学習会を開いた。今回の学習会は、第34回総会記念講演会として開催したもので、「原爆投下は正しかったのか? 米国の言説を歴史的に紐解く」という表題のもと、米国世論の大勢を占めている「原爆投下が戦争を終わらせたのだ」とする言説について考察した。以下、講演内容を抜粋して紹介する。

原爆投下に対するアメリカ側の公式見解

アメリカでは、原爆投下について「革命的な兵器である原爆が、日本にショックを与え、それによって降伏に導き、上陸作戦が行われていれば死んでいたであろう100万人の命を救った」というのが公式見解とされている。この公式見解は、終戦後すぐに表明されたわけではない。公式見解のもとになっているのは、スティムソン論文である。これは戦時中の陸軍長官であったヘンリー・L・スティムソンが執筆した(※)もので、1947年2月号のハーパーズ・マガジンに掲載された論文である。タイトルは「原爆使用の決断」というものである。

(※実際はゴーストライターが執筆。マクジョージ・バンディという、後にジョンソン政権とケネディ政権で安全保障政策の補佐官を務めた人物で、もちろん核兵器について非常に知識のあった人物である。バンディは後にスティムソンの回顧録を書いたが「スティムソン論文では、原爆投下の決定は非常に考え抜いたうえでの苦渋の決断だったと述べているが、十分な時間をかけた深い議論は全くなかった」と明らかにしている)

スティムソンはニューヨーク生まれで、イエール大学を卒業し、ハーバード大学の法学校で学んだ弁護士である。スティムソンはタフト政権(共和党)で陸軍長官、フーバー政権(共和党)では国務長官、F・ルーズベルト政権(民主党)でも再び陸軍長官を務めた。

スティムソン論文は雑誌11ページ分の紙幅を割いていて、最初の3分の1程度は原爆投下の経緯や、戦後の核管理を中心に書かれている。それによると、暫定委員会に付属する科学顧問団が1945年5月から6月にかけて、日本のどの都市に対して原爆を使用するのかや、どういう状況で使用するのかを決めていた。例えば、民家に囲まれた軍事施設に対しても警告なしで使用するということなども決めたが、そういった議論についても紹介している。あるいは、原爆はものすごいエネルギーなので、管理する組織が戦後に必要だとも記している。また、第二次世界大戦の戦況について、日本陸軍がなお500万人の兵力を温存し、最後まで戦い抜く覚悟である可能性があるため、本土への上陸作戦となった場合は米軍だけで100万人を超える死傷者が出る可能性があると言っている。原爆投下を正当化する理論のことを「100万人神話」と呼ぶが、これはスティムソン論文から来ている。

スティムソンは、代替案も検討したと言っている。それは、日本への警告ということで、のちにポツダム宣言という形で実行される。ポツダム宣言では「これから圧倒的な攻撃が日本にもたらされる」「日本民族や日本国家を根絶やしにすることが目的ではなく、侵略戦争に引き入れた者たちを罰し、その影響を取り除くことが目的である」「民主主義が確立された後には、日本は国家としての主権が回復される」と言っている。

スティムソンが論文を書いた目的が冒頭に書かれている。原爆投下の是非を広く議論するのは適切であり、最も事実を知る立場にいた者として、議論に資するために事実を記したと言っている。ただ、実際には、この論文は原爆投下を正当化するのが一番の目的であるのは明らかである。例えば、原爆投下をしなければ本土上陸作戦で米軍側に100万人の死傷者が出ると書いてあったり、苦渋の決断だったがそれが戦争の現実であると言いつつも、革命的な兵器である原爆の投下があったから日本はショックを受けて降伏したのだといったことが述べられている。

原爆投下をめぐるもう一つの言説

では、1947年2月に、なぜスティムソンはこのような論文を書かねばならなかったのか。実は議論の中で、原爆投下の正当化に不利になる言説が出ていたからである。1945年8月の原爆投下から46年にかけて、大きく分けて二つの言説が議論されていた。一つは「原爆は革命的な兵器であり、日本を降伏に追いやったのは原爆投下があったから」とする言説である。もう一つは「原爆は強力ではあるが、一つの爆弾に過ぎず、原爆がなくても日本は降伏していた」というもので、この二つの言説で議論が展開されたのである。

一つ目の言説を唱えた人たちは、原爆を開発したマンハッタン計画の科学者や、アメリカ陸軍の組織である。一方、二つ目の言説は、主にアメリカ海軍、陸軍航空軍、あるいはアメリカ政府の閣僚の中にも主張する人がいた。例えば、カール・スパーツというアメリカ戦略航空軍の司令官がそうである。彼は、終戦直後の1945年9月19日に「原爆ではなくB29が戦争の勝利をもたらした」と言っている。長崎に原爆を投下した直後には、「我が軍の武器庫の中では、原爆はそれほど重要ではない。B29の大編隊による焼夷弾や破壊弾を使った攻撃こそ、日本の戦争能力を破滅させるのに主要な役割を果たした」という主旨のことを言っている。

また、1945年3月10日の東京大空襲を率いたカーチス・ルメイは、それまでアメリカがとってきた精密爆撃ではなく、東京大空襲からは絨毯爆撃という、夜間の低空飛行によって街全体を焼き尽くす戦略を始めた人物である。彼も9月12日に「原爆は戦争終結に何の役割も果たさなかった」「ロシアが参戦していなくても、原爆投下がなくても、戦争は2週間以内に終わろうとしていた」という主旨のことを言っている。チェスター・ニミッツという海軍の太平洋艦隊司令官も、9月21日に「原爆はただの爆弾の一つで、アメリカは海軍力になお依存する必要がある」と述べ、さらにその2週間後には「本土上陸も原爆投下も、ロシア参戦がなくても、日本は降伏していた」と述べている。

戦後に国務長官となってマーシャルプランというヨーロッパの救済策を発表したジョージ・マーシャルは、1945年9月25日の時点で「原爆は恐ろしい威力を有するが、それでも単なる兵器の一つである」「戦争に勝つための根幹的な条件は、火薬や潜水艦、毒ガスや戦車、飛行機の発見で変わった以上には変わることはない」と議会で言っている。このほかにも、複数の軍関係者や閣僚らが「原爆投下がなくても日本は降伏していた」あるいは「原爆は日本を降伏させるための重要な助けにはならなかった」「効果的な海上封鎖と通常兵器による爆撃を受けて、すでに日本は降伏しようとしていた」といった主旨の考えを述べている。

これまで、様々な軍や政府の閣僚のこのような発言を引き合いに、主に修正主義史観の歴史家は「原爆投下は必要なかったという自分たちの考え方を裏付けるものだ」という主張を展開してきた。ただ、現実的には、軍の指導者や閣僚が、原爆投下は必要なかったと言ったことについて、もっといろいろな複雑な背景があったと考えられ、単純に、原爆投下は必要なかったと本音で思っているかどうかは疑問が残る。なぜならば、軍の指導者らが、原爆投下は必要なかったと言った背景には、戦後の軍備再編が計画されていたからである。軍備再編とは具体的には、陸軍、海軍、そして陸軍の中にあった陸軍航空軍を独立した空軍にした上で、陸海空の三軍を民間人である国防長官の下で、一つの組織に統合するという計画であった。戦時中から、陸軍、海軍、陸軍航空軍は、それぞれ基地を作ったり、海軍も飛行機を持っていたり、あるいは、陸軍と海軍に海兵隊があったりする点など、あまりにも重複が多く、予算が無駄に使われているという批判が、議会などから出ていた。

そこで、陸海空の三軍をゆるやかにつなげて統制する長官を上に置き、それぞれのやっていることを把握して、無駄をなくそうということになった。ただ、三軍統合にあたっては、それまでの伝統的な軍組織である陸軍と海軍は、第二次世界大戦中に活躍が著しかった陸軍航空軍を非常に警戒していた。戦争が終わった後は予算が明らかに縮小されていくという中で、陸軍航空軍が空軍として独立して予算を持つと、自分たちの予算は減らされるのではないかと危惧した。加えて、陸軍航空軍は航空機を駆使して効果的に爆撃し、ドイツや日本を降伏に至らせたといった主張を始める中で、もう海軍や陸軍は必要ないんだというような議論も出てきたこともあって、戦後の組織再編に対して、三軍の間で非常に緊張感があった。

二つの異なる原爆投下是非論が対面した原爆展問題

二つの言説があって、スティムソン論文で一応公式見解は形成されたものの、それでも原爆投下不要論は折に触れて、アメリカ国内で頭をもたげてきた。例えばベトナム戦争当時、反戦運動が非常に高まったが、1960年代にリビジョニストという修正主義史観の人たちの歴史家が台頭してきたときに、原爆投下不要論がよく引用された。

私は1995年にワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館で行われた原爆展を取材した。これは宇宙博物館での原爆展として、もともとは被爆資料を展示する計画だったが、米国の退役軍人会などの反対があり、広島長崎関係の資料は全く展示されず、原爆投下機であるエノラ・ゲイ号の展示を中心としたものに変わった。実は、この原爆展も、二つの言説の戦いだったと私は見ている。原爆展問題はよく「アメリカと日本の原爆観の違いが浮き彫りになった」と言われる。しかし、そうではないと思う。スミソニアン航空宇宙博物館の原爆展問題に、日本人はほとんど主張がなかった。

むしろ、スミソニアン航空宇宙博物館の修正主義史観の学芸員たちは、原爆投下の是非について疑問を投じるような展示をしたいと考えていた。それに対し、原爆投下は正しいことだというアメリカの公式見解を支持する退役軍人にも、終戦直後は様々な思惑があり、「原爆が日本を負かせたのではない」という考えの人もみられた。しかし、その後、原爆あるいは核兵器自体が、アメリカの戦力として徐々に受け入れられ、増産してより性能のいいものが開発されていく中で、軍も核兵器を受け入れていく。その中で、考え方が変わっていって、原爆投下は正しかったという公式見解を支持するという流れになってきた。そして、二つの異なる考え方が、50年を経て対面したのが、この原爆展という場であった。

原爆投下の是非を考えさせる仕組みや教育が必要

原爆展をめぐっては、アメリカ議会の場やメディアにおいて非常に激しい議論が行われ、ハーウィット館長が退職するというところまでいった。原爆投下の是非に関しては、それまで比較的自由に表明されてきた異なる見解があったのに、原爆投下は必要なかったという原爆投下不要論は、1995年の原爆展においては非愛国的という烙印を押される場となった。但し、アメリカでは、1995年あたりは退役軍人も非常に元気であり、そのときがピークのように公式見解が主張されたが、その後、第二次世界大戦に従軍した人たちが亡くなっていく中で、世代交代が進んだ。いまアメリカでは、原爆投下が正しかったという考え方も確かにまだ主流ではあるが、これは徐々に変わってきているとも言われている。

私自身、アメリカに毎年1回ぐらい行くが、学生やいろんな人と話をする中で、アメリカの中にも、特に若い人たちの中で、原爆投下が正しかったかということについて議論を行う世代が出てきていると感じる。明治大学の藤田怜史(さとし)さんの研究で言われていることだが、アメリカにおいて、特に1980年代以降に、原爆投下の是非を考えさせる(どちらが正しいということではなくて、こういう考え方もあるし、こういう考え方もあると提起する内容の)教科書が出てきていることも背景にあるのかなと思う。

一方で、日本では逆の動きが進んでいると感じている。日本では現代史において、第二次世界大戦のことはほとんど教えられていないし、原爆投下についても、投下されて戦争が終わったということだけ書かれている。「日本の戦争責任」が、いかに日本ではタブーであり続けているか、ということだと思う。原爆投下論争は、アメリカの問題でもあり、もちろん日本の問題でもある。やはり議論の根拠となる情報をもっと開示し、議論を深めていくような仕組みや教育が必要ではないかと思っている。

 

■□■市民社会フォーラム協賛企画のご案内■□■
非核の政府を求める兵庫の会 第34回総会記念講演会
     原爆投下は正しかったのか?
     米国の言説を歴史的に紐解く

日 時 2020年2月8日(土)14:30~16:30
会 場 兵庫県保険医協会6階会議室
講 師 神戸市外国語大学英米学科准教授 繁沢 敦子氏
参加費 1000円(非核の政府を求める兵庫の会会員は無料)
お問い合わせ先 電話 078-393-1833 e-mail shin-ok@doc-net.or.jp 
協 賛 市民社会フォーラム

 広島・長崎の被爆75年の2020年は、核兵器のない世界へ向けて重要な節目の年になります。
核兵器禁止条約も発効が期待され、5年に一度核兵器廃絶の「明確な約束」が議論されるNPT再検討会議が4月から開催され、「ヒバクシャ国際署名」が国連に提出されます。
しかしながら、核兵器廃絶を求める国際的な市民社会の流れに対し、核保有国とその同盟国はいまだに「核の傘」に固執しています。
とくに米国では、原爆投下は戦争終結のために正しい判断だったという世論がいまだに大半であるように、被爆の惨状が伝えられていません。
 その淵源には、終戦後から「原爆が革命的な兵器で戦争を終わらせた」とする言説があり、現在に至るまで原爆投下を正当化する米国の公式見解としての役割を担ってきたことがあります
他方、「原爆は戦争終結には必要なかった」という別の言説も存在しましたが、公式見解としての座をめぐる競争において前者が後者を凌駕してきたということがあります。
 本講演では、米国では原爆についてどのような議論が存在したのか、そしてどのような背景のもとにそうした議論があったのかを明らかにします

■繁沢敦子(しげさわ・あつこ)さん
神戸市外国語大卒。広島市立大国際学研究科博士後期課程修了(学術博士)。読売新聞記者、広島市立大広島平和研究所情報資料室編集員を経てフリーの翻訳家、通訳、ライター。16年4月から神戸市外国語大学英米学科准教授。著書に『原爆と検閲―アメリカ人記者たちが見た広島・長崎』(中公新書 2010年)。