かつて、東欧にはユーゴスラビアという国がありました。多民族・多宗教の連邦国家でしたが、激しい内戦を経て、現在では7つに分裂しました。ユーゴスラビアはサッカー強国として知られた国です。ピクシーの愛称で知られるストイコビッチの故郷であり、そして今回講演いただいた千田善さん(国際ジャーナリスト、通訳者)が通訳を務めたオシム氏(サッカー元日本代表監督)の故郷です。千田さんは、セルビアのベオグラード大学で国際政治学を学んだ経験を生かし、国際ジャーナリストとして活躍。また、千田さん自身も元々サッカー少年であり、2006年にはオシム監督の通訳になりW杯出場を目指しつつも、オシム監督の体調不良による志なかばでの退任という辛い出来事も経験されました。この日の講演では、激しい内戦によって国家や人々が分断されたユーゴスラビアの実例から私たちが学ぶべきことを、サッカーの話題を交えつつ解説されました。
(以下要約)
目次
ユーゴスラビアは何百年も多民族が共存していた
ユーゴスラビアは、多宗教(正教、ローマカトリック、イスラム教など)であり、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人、ムスリム人、そして少数民族(アルバニア人など)からなる多民族の連邦国家である。多宗教・多民族の根本の理由は、ユーゴスラビアが東西ローマ帝国の境界線上にできた国だからである。西ローマ帝国はカトリック、東ローマ帝国はセルビア正教やロシア正教などが普及した。そして14~15世紀ぐらいから、トルコ人(オスマン帝国)がやってきてイスラム教が入る。また、スペインに住んでいたユダヤ人が何十万人も追い出され、彼らをオスマン帝国が受け入れる。そして、イスタンブールやサラエボに大勢が住んだ。
オスマン帝国は宗教別の統治(宗教別に戸籍が作られ、教会が徴税を担当。宗教ごとに税額にも差がつけられた)をし、それが400~500年も行われた。宗教によってはお互いを破門し合うなどの対立もあった。けれども、バルカン半島の歴史を見ると、何百年も共存し平和に暮らしていた歴史のほうが長い。いつでも喧嘩をし殺し合いをしていたわけではない。残念ながら殺し合いをすることが3回(第一次世界大戦、第二次世界大戦、ユーゴスラビアがなくなる1990年代)あったが、長い共存の歴史から見ると例外的である。
サラエボ事件から世界大戦へ
1878年にトルコ領だったボスニアをオーストリアが統治し1908年に併合。1914年にオーストリアによる併合に怒ったセルビア民族主義者がオーストリアの皇太子夫妻を暗殺した(サラエボ事件)。それを機に第一次世界大戦になるのだが、最初から「これから世界大戦を始めます。よーいドン」で第一次世界大戦が始まったわけではない。最初はオーストリアとセルビアの戦争が事件から1か月後に勃発した。
オーストリアとセルビアが戦争を始めると、やがて欧州戦争になった。これは、オーストリアがドイツと結んでいた軍事同盟、そしてセルビアがロシアやフランスと結んでいた軍事同盟、フランスと結んでいたイギリスという具合に、ドミノ式に次々と参戦。そして、イギリスと日英同盟を結んでいた日本も加わる。ヨーロッパでイギリスと敵対していたドイツが中国で支配していた租借地(チンタオなど)を日本軍が占領。さらにはオーストラリアやニュージーランドも世界戦争に加わった。当初、まさか世界戦争になるとは、誰も想像できなかった。
1918年に第一次世界大戦が終結し3大帝国(ロシア帝国、オスマン帝国、ハプスブルク帝国)は滅亡。これによって、支配地域が解放され新しい国々が生まれた。そのひとつがユーゴスラビア王国(のちに連邦共和国となる)である。2018年は第一次世界大戦の終結から100周年である。
1980年半ばからセルビア民族主義が台頭
ユーゴスラビアは、チトー大統領のカリスマによって多民族・多宗教な連邦国家としてひとつにまとまってきたが、1980年にチトー大統領が死去すると、セルビア民族主義が台頭する。その首魁が、のちにユーゴスラビア連邦の大統領に就任するミロシェビッチである。ミロシェビッチは、旧世代の指導部を追い落とすために、権力闘争を仕掛けた。政治の若返りや経済改革の名のもとに、民族主義や愛国主義を絡めてセットにした。例えば、これまでタブーとされてきたコソボ問題。アルバニア人によって少数派のセルビア人が苛められているコソボを正常化するという大義名分を絡め、チトー主義者(よく言えば穏健、悪く言えばなぁなぁでズブズブ)である旧世代指導部を批判した。
民族主義は街頭集会からやがて個人テロへ
民族主義台頭への始まりは街頭集会やデモだったが、やがて要求が過激化し、ミロシェビッチの意に沿わない地方の旧世代指導部がつるし上げを喰らうという、まるで紅衛兵の時代のようなことが起きた。これらは最初は気づかないところから、民族主義が始まっていく。やがて、リベラルなジャーナリストが襲われたり自宅が放火されたりといった個人テロが横行した。そして、「セルビア人」あるいは「クロアチア人」といった具合に、相手が「塊」で見えてしまうようになる。「中にはいい人もいるはずだ」と言うと裏切り者扱いされる。結果、「塊」VS「塊」になってしまい衝突が避けられなくなる。ミロシェビッチはメディアも掌握し、都合のいいニュースばかり流した。これは、どこかの国も同じ状況ではないかという危機感を私は持っている。
個人的な権力闘争が国家分断と大量の死者や難民を生んだ
セルビアがコソボでアルバニア人を弾圧したことから、今度はスロベニアやクロアチアがセルビアに反発し、独立運動へとつながっていった。この結果、1990年に行われた連邦を構成する全ての共和国で、民族主義派が実権を握り、連邦議会は選挙すら行えなくなった。そして、1991年から5つの戦争や紛争(スロベニア独立戦争、クロアチア戦争、ボスニア分割戦争、コソボ紛争、マケドニア紛争)を経て、ユーゴスラビアは7つに分裂していった。十数万人もの死者と、ピーク時には300万人規模もの難民を生んだユーゴスラビア紛争と国家分断は、ミロシェビッチ個人の権力闘争から始まったのである。
最終的にミロシェビッチは戦争犯罪容疑で逮捕・起訴され、オランダのスケベニンゲン(Scheveningen)にある戦犯法廷拘置所で2006年に病死した。ミロシェビッチは民族主義者ですらなく、プラグマティスト(実利主義者)、本当に共産党員だったのかすら怪しいような、人品卑しい人だった。
ユーゴスラビア紛争から学ぶいくつかの教訓
「戦争をします」と言って立候補する政治家はいない
最初から「私は戦争をします」と言って立候補する政治家はいない。(好戦的指導者の台頭は)政治家の「国益を守ります」「国民に奉仕します」などのコメントから始まる。仮想敵を作って「悪いのは彼らです」とか、「私たちは本来あるべき利益を奪われている」といった具合に、「自分たちは被害者だ」と主張するところから、大民族主義や大愛国主義は始まるのである。
危ないと思ったら声をあげないといけない
民族主義の恐ろしいのは、弾みがつくと止まらなくなることである。そして、民族主義や愛国心は、批判する者を裏切り者(非国民)扱いする。特に、「祖先(英霊)を敬うのは当然である」といったような主張をしてくるので、批判や反論をするのにものすごくエネルギーが必要となる。結論としてナショナリズム・民族主義・愛国主義は「常に正しい」「過激であればあるほど正しい」とされてしまうので、非常に反論しづらい。だが、日頃から警戒し、危ないと思ったら声をあげないといけない。
◎概要
非核の政府を求める兵庫の会 市民学習会
「なぜ戦争は終らないか?民族・紛争・国際政治を考える」
講師:国際ジャーナリスト 千田 善さん
日時:2017年5月26日(金)18:30~20:30
会場:あすてっぷKOBE セミナー室1
主催:非核の政府を求める兵庫の会
協賛:神戸YWCAピースブリッジ、市民社会フォーラム
◎講師略歴
千田善(ちだ・ぜん)さん
通訳者・国際ジャーナリスト
1958年岩手県生まれ。国際ジャーナリスト、通訳。ベオグラード大学政治学部大学院中退(国際政治専攻)。外務省研修所、一橋大、中央大、放送大学などの講師を歴任。2006年よりサッカー日本代表イビツァ・オシム監督の通訳を務める。2012年より立教大講師。著書に『ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇』(講談社現代新書)、『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか』(勁草書房)、『ワールドカップの世界史』(みすず書房)、『オシムの伝言』(同)、『オシムの戦術』(中央公論新社)など。