【動画】元プロ野球選手・張本勲の姉が語る被爆の実相と核兵器廃絶の願い(講師:小林愛子さん 2018/9/8神戸)

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※小林愛子さんの当日のお話の中から、広島での被爆の実相にかんするお話の部分を文字起こししました。

 

1945年8月6日に広島へ原爆が落とされました。原爆を落とされて一瞬で14万人が亡くなりました。8月9日には長崎が原爆を投下されまして、7万4000人の人が一度に亡くなりました。

私は1945年8月6日に広島で原爆を受けました。私の家はお父さんがいなかったんですよ。父は亡くなって、いなくて、母と中学2年生のお兄ちゃんと、小学校5年生の姉と、私が小学校1年生、弟が5歳になったばかり。

私たちが子供のときは、毎日が戦争だったんですよ、戦争。空襲警報発令! と言ったら、家にいてるときには、もう家の片隅で小さくなって。学校に行ってるときには、学校の机の下に入ってちっちゃくなって。外に行ってるときは、防空頭巾をかぶって、穴を掘って防空壕、山があれば、どこでも穴を掘って入れるようにしてある。学校の運動場でも穴を掘って。戦争はもう、空襲警報発令! となると、その中に入って、じーっとしてて。で、解除となると、また出たりして。毎日がそういう戦争戦争でした。

いまの人生にあるものは、(当時は)全て何もありません。原子爆弾を落とされてから、今年で73年なんですよ。いま皆さんも、77歳、78歳になっても、戦争や原子爆弾をみんな知らないと思うんです。食べ物も何もありません。毎日、配給なんですよ。張本の家は5人家族だから大根1本、じゃがいも3つ、かぼちゃ半分、米はちょっとだけ、麦もこれだけとか、そういう配給。そういう時代でした。

1945年8月6日は、すごくいいお天気だったんです。 いまでは考えられないんですけれども、昔は小学校4年生、5年生、6年生、上級生、中学生も、その上の学生も、勤労奉仕といって手伝いに出るんですよ。 国民のために石を運んだり、木を運んだり、何事も手伝う。子供たちがそうしてたんです。 中学のお兄ちゃんも、中学生だから朝早く8月6日に勤労奉仕に出てました。お姉ちゃんも小学5年生だから、朝早く出てました。家には、母と私と5歳になったばかりの弟の3人がいました。みんなも貧乏だったんだけど、 私の家は、昔は本当に本当に貧乏で、父もいないし、長屋みたいなところに住んでたんですけど、小学校1年生のときって、考えたら割といい家に住んでたんですよ。バーッと大きいガラスの窓があって、玄関もガラスが入ったドアがあって。家の前に2~3mぐらいの道があったんですよ。

その日、8月6日の日は、とてもすごくいいお天気で、朝早く6時ぐらいにB-29がバーッと通って、空襲警報発令! って一応出たんですけど、7時ぐらいに解除になったんです。それで、あぁいいのかな?  ということで。窓も全然、暑い日に、朝、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、もう出かけてる。窓も締め切ってたんです。玄関も締めきってて、窓は開けてなくて。 それで8月6日、ピカッ! ドーン! ガチャガチャガチャガチャガチャガチャドーン! と一瞬に。パッと窓を見ると、真っ赤な窓で、その瞬間に、もう1秒も経ってないような瞬間に、母が私と弟の上にバーッと被さってくれたんですよ。そのガラスがガチャガチャガチャガチャと散って、破片が散って、母の背中とか体にガーっと刺さって、足にも刺さった。それでバーッと母が被さってくれた。戦争が毎日あるということは分かってたけども、弟も私も母の下で、何が起きたのか、今日は何が起きたのかも、それがもう分からなかった。

母が被さったその下で、ちょっと間、しばらくしていたら、もう家もペチャンコになりました。いまみたいな立派な家でもないし、長屋みたいな家でしたから。ペチャンコになって、母が、早よ逃げんさい! 勲を連れて早よ逃げんさい! 弟が勲という名前なんですよ。早よ勲を連れて逃げんさい! 逃げんさい! と言うわけ。お母ちゃん、どこに逃げるん? どこに逃げるん? と言ったら、早よ逃げんさい! 逃げんさい! と。お母ちゃんも一緒に逃げようとか言ったら、お母ちゃんは、お兄ちゃんとお姉ちゃんが帰ってきたら、お母ちゃんがいなかったら路頭に迷うから、早よ勲を連れて逃げんさい! 弟を連れて逃げんさい! と言うわけ。お母ちゃん、どこに逃げるん? どこ? と言ったら、とにかくみんなが逃げるほうに逃げんさい! 逃げんさい! と、もうずっとそれを怒鳴って言うわけ。

出るにも出られないんですよ。家はペチャンコになってるし。お母ちゃんが、早よ逃げんさい逃げなさいと言うから、もう耳にこびりついてる。あぁ、この弟を助けなあかんのだと思って、それでもう、這って這って外にひょっと出ると、外に出てる人はみんなもうバタバタと死んでるんですよ。原子爆弾が落とされて、8時15分で時計が止まってるから、8時15分に落とされたんでしょうね。外にいてる人は、放射能を浴びてる、あのすごい光を浴びてる、熱を浴びてる。バタバタバタバタと、出るといっぱい、足の踏み場がないぐらいに、いっぱい死んでるんですよ。死んでるのをパッと見たら、もう弟を連れて逃げないとだめだから、足の踏み場がないんだから、よけながらパッと見たら、何ていうか、もうドロドロしたような、肌だろうか衣類だろうか分からない。これ、もう本当に人間かなというぐらいドロドロドロドロの人が、バタバタバタバタと死んでるんですね。それもそのはずなんですよ。原子爆弾が落とされたときには250万度ですって。B-29からバンっと落とされたとき。地上に落ちたときには6000度。そりゃあ、外にいてる人間というのは、もうみんな死んでる。

部屋の中にたまたまいた人は、あー痛いよ、助けてー、熱いよー、何とかしてーと言いながら、ワーワーワーワー言いながら、うちの中から這って出てきてる人。そういう人はまだまだ声を言ったり、助けて! も言えるわけ。外にいた人は放射能を浴びた。放射能を浴びると、髪の毛をバッと引っ張ると、ブシュブシュブシュと抜けるんですよ。それでもういっぱい死んでるの。まぁ、とにかく、お母ちゃんに言われてるから、この弟を連れて逃げないとだめと思いながら、みんなが逃げるほうへ逃げなさいと言われてるから。みんながワーッと逃げてるんですね。弟を連れて手を引いて逃げながら、もう5歳になったばかりだから。途中でおぶったり、手を引いたりして、ずーっと逃げてると。

広島というのは、川がすごくきれいなんですよ。(川面まで)4~5mあっても、パッと上から見ると透き通って下まで見えるぐらい。 広島というのは、川がものすごく多いんですよ。太田川とか元安川、猿猴(えんこう)川、京橋川、天満川とか、川がものすごく多いんですよ。何も食べるものがなくて、草を食べてる時代ですから。1日1回だけ、その川は水がきれいに引くんですよ。水が引いて砂地になるの。砂地になったら、ハマグリとか、こちらではアサリと言うけど、広島ではコガイと言うんですね。コガイとか貝が、長いタニシみたいなのが、川の砂地でとれるんです。川の横に石がいっぱいあるんですが、それをパッと剥ぐると、サワガニがいっぱいいた。食べ物がない時代はそれをとったりして、貝をとったりして、1日1回2時間ほど水が引くから。それを食べたりしてた。

そのきれいな川に、原子爆弾が落ちたときには、水はいっぱいでした。部屋から出てくるとか、何か建物から出てくる人は、ウワーっと這って出る人は、8月6日、夏のものすごく暑い日だからね、みんな水の中に入るんですよ。バンバンバンと水の中に。それで弟の手を握って走って逃げながらでも、ウワーっとみんな逃げてるの。でも、ひょっと顔を見ると、あんなきれいな川に、いっぱい人が入って、入るともう死んじゃうんですよ。死んでる人もいれば、ちょっと息絶えてる人、ワーッと言ってる人もいてるし、いっぱい川にいてる。

それを私、小学1年生が何を思ったのか、弟を連れて川に降りた。降りてひょっと見たら、母の血ですね。母の血が、ガラスにガーンと体に刺さって、被さってくれたときの血が(服についていた)。私も白いシャツ、弟も白いシャツを着てて。昔は着るものがありませんよ。着るものも、もんぺとか、かすりみたいな着物みたいなのを着たり。たまたまその日は白いシャツを着てたんですよ。昔はピンクとか赤とか紫とかブルーとか、そういうのは一切ありません。 ただ、黒いズボンか茶色のスカートか、シャツはほとんど白のシャツ。弟を見ると、真っ赤に染まってるの。私も見ると、真っ赤に染まってるの。何を思って川に降りたかと思えば、母の血の生臭い血の匂いを消したいと思ったと思うんですね。

小学1年生。弟を連れて川に降りたら、いっぱい死んでる。死んでても、弟を洗ってあげて、その生臭い血をもう消したい思いで、水をパッとすくった。こんなきれいな川の水が、貝とか食べてた川の水が、パッとすくうと、茶色なのか赤なのか、もうドロドロして。そりゃそうですよ、みんなやけどした人もそこに、熱い、ワー、助けてー、熱いよ熱いよーと入ってる。肌の色も溶けてる。もうドロドロしたのも流れてる。家から出てきて、熱いよ、痛いよ痛いよと言ってそこに入ってる。だから、その水をすくったときも、茶色で赤でもうドロドロした、えー! と言うよな水なんですよ。そのときは記憶がないんですよ。それは川の水と思って。それで洗おうと思ってパッとすくって弟のシャツをガーっと洗ってあげた。その血の真っ赤な血の色が、もうどろどろして赤とか茶色とか分からんぐらい。余計に汚くなる。自分でまた洗ってるんです。それ、バーッと洗って。血の匂いを消すためにワーッと洗って、それでそこで、その水をすくって、夏の8月6日の暑い暑い日だから、水も飲みたい、そういう思いはあったのかなかったのか、それは記憶にないけど、それを弟にすくって飲ませて、私もすくって、その水を飲んで、弟を連れてその川に入ってたら、弟も私もその場で死んでる。もういまはいません、弟も私も。死んでると思う。あんなドロドロした水を飲んでたら、もう死んでると思う。

それをまた何を思ったのか、私は母が勲を連れて逃げんさいと言われることもあるから、自分はどうでもいいから、この弟を連れて逃げて、助けなあかんと思って、またその川から、ドロドロして、洗ってドロドロして流れるので、また弟の手を引っ張ってね。それでまたみんなも、もう逃げてるから、もう引っ張って手を引いて逃げたり、また途中で、またおぶったりして、また降ろしたりして、もう重たいから降ろしたりして、また手をつないで逃げて逃げて逃げてね。 それで、だんだんだんだん薄暗くなってくると、もう逃げてる人もいないんですよ。ちりぢりばらばらになって、どこへ行ったのか、自分はどこへ逃げてるのか。73年経って、いま考えても、どこへ逃げたか、意識がないし、覚えがないんですよ。だけど、原爆を落とされた原爆ドームより反対のほうへ逃げだと思うんですよ。反対のほうに逃げたと思うのね。

それで逃げて逃げて、私のところは原爆ドームから家は1.5kmのところに住んでたんですけど、そこからずっと向洋とか海田とか呉の方向に逃げたと思うんです、逆方向に。 広島の駅の、原爆を落とされた方向じゃなくて、逆方向に逃げたと思うんですね。逃げて、もうずっと一生懸命弟を連れて逃げて逃げてして、ばらばらちりぢりで人も少なくなって、考えたら12~13時間ぐらい逃げたと思うんですよ、弟を連れて。それでもう暗くなって、8月6日は、またちょっとあとで考えたら、日が長かったのかな。時間が分かりませんけどね。たとえ8時すぎか9時すぎか、暗くなって、それで、逃げて土手のところで、草むらのところで、橋があって、土手のところで、ドンと弟を連れて座って、そこまで逃げてきて、座って。

人間というのは、本当に恐ろしくて怖くて悲しいときには、声も出ません。涙も出ません。それが証拠に、弟は私、土手の草むらのところで、橋の根元でドンと座ったときには、一回も弟は泣いてない。私も泣いてない。泣いたら、弟を助けなあかんのに、私が泣いたら弟もまた泣いて困るだろうしと思うから。私も泣いてない、一言もしゃべってないんですよ。弟もしゃべってない、一言も。私も一言もしゃべってない。あんな5歳になったばかりのわんぱく小僧の弟が、本当だったら、どこに行くにもお姉ちゃんお姉ちゃん! ついていく! とか、お母ちゃんお母ちゃん! とか言って、もうワーッと言うのが、恐ろしすぎて怖すぎて悲しすぎて。いっぱい見てきてるから、人が死んでるのを。 それが普通の人間がコロッと倒れてるんやったら、倒れてるのかと思うけど、もうそれがドロドロになって、本当に人間なのか何なのか分からんようなのが死んでるその姿を見てきてるし、川の中のいっぱい死んでるのも見てきてるし。もう一言もしゃべらずに、ドンと2人は座って、広島の、1年生でも広島の駅の方向というのは分かりましたから、あっと見たら、一瞬ね、何もない。建物も何もない。何にもなくても、ワーっと火は燃えてるし、かすかに聞こえるの。熱いよ痛いよワーっというのは、かすかに聞こえるんだけど、遠くまで逃げてたんでしょうね。何もない。何がどうなったのか。

それでハーっと思いながら必死に出ると、向こうのほうから、薄暗いところから、自転車を引いて、来る人がいた。そこに座ってるときには、私と弟ぐらいでした。あと他は、はるか遠くにいてて、ほぼいませんでした。2人が座ってると。向こうのほうから自転車を引いた、お爺ちゃんでもない、若いお兄ちゃんでもない、そのときは分かりませんでしたけど、あとで考えたら、50代位のおじちゃん。自転車を引いて、来て、ひょっと見ると、自転車の後ろに、白い紙みたいな箱に、真っ白いおにぎりをいくつか積んでるんですよ。それで、あんたらここにおったんね、と言って、これ1個ずつ食べんさいと言って、くれたんですよ。いま、そのときのことを思うと、もう涙が出て仕方がないんですけどね。(おにぎりを)くれて、初めてそのときに、弟が、おじちゃん、ありがとうと言った。私も、おじちゃん、ありがとうと言って、おにぎりを一つずつもらって。そのおにぎり、真っ白い米のおにぎり。見たこともない、食べたこともない、一度も、原子爆弾を落とされて逃げたときまで食べたことがない、見たこともない。もう毎日、そりゃ、大きな鍋に水を入れて、大根を入れて、かぼちゃとか、じゃがいもとかを入れて、米をちょこっと入れて、麦をガバっと入れて、ワーッと炊いて、お粥さんみたいに炊いて食べてる、そういう生活ばかりでしたし、だから真っ白い米を炊いたのは一度もないし、食べたこともない。

おじちゃんは、あんたらここにおったんね、1個ずつ食べんさいとくれて、見たら真っ白い米の。米よ、分かってるからね、配給でもらってるから。米。おにぎりをもらって、一つずつ。それで本当に日本の人は優しい人はいる。この世には本当に優しい。何も食べ物がないときなんですよ。配給でもらうときに、そのおじちゃんは、たまたま配給でもらった米があったのか、農業をしてて、たまたま米があったのか、米屋さんをやってたのか、それは私には分かりません。だけど、広島市内から遠くはるばる、遠いところから、ご飯を炊いておにぎりを作って、あーもう、市内のほうは原子爆弾でみんな死んでるしとか言って、おにぎりを作って持ってきてくれたんでしょうね。作って、持ってきてくれて、それで一つ食べて、本当に優しいと思いました。 私は小学校や中学校へ行っても、こういう話を絶対します。優しい人間になりなさいとか言ってね。

それでそれを食べて、その草むらで、一晩寝たのか二晩過ごしたのか、いま考えても意識がないんですよ。でも、ずっと考えてみると、一晩ではないなと思った。二晩ぐらいは、そのおにぎりを食べて、ドーっとして意識を失くして、二晩ぐらいはそこに、弟と二人。弟もドーっと、もう 二晩ぐらいものも言わない、何も言わない。おにぎりを食べても意識がなくなったみたいに寝てたと思うんですよ。 それで、これも私は意識がないんですけど、いくら考えてもないんだけど、そのおにぎりをもらって食べて、二日ぐらいはそこにドンと過ごしたと思うんですよ。寝て、二晩ぐらいは。それでパッと気がつくと、昔は広島は、ぶどう畑がものすごく多かった。レンコン畑と。レンコン畑は、避難できませんよね、ドロドロしてるから。ブドウ畑は原子爆弾を落とされて、ちょっと息がある人は、みんなブドウ畑に避難してるみたいで、避難してたんですね。

それで、二晩寝たと思うね。そこで寝て、パッと気がついたら、ブドウ畑の中にお兄ちゃんとお母ちゃんがいるんですよ。あー、お兄ちゃんお母ちゃん! よく見るとお兄ちゃんは手にやけどして、自分のシャツをガーンと破って、薬もそんな病院もある時代じゃないですから、薬も一切ありませんから、薬といったら、こんな小さい瓶に、赤い水で溶いたような赤い薬が、赤チンというのが、それだけなんですよ、もう。ない。医者も、ここから、元町から本当に明石ぐらいのところに1軒病院があるぐらいの、病院が1軒ぐらいしかないようなところやから。そんなもん、原子爆弾で(病院は)なくなってるし、そんなどころじゃなくて、それでシャツをガーンと破って、大やけどしてましたね。手もガーっとくくって、母をパッと見ると、お兄ちゃんお母ちゃんって、ブドウ畑で出会って、うあー、よく生きててくれた! と言って、それで再開した。だけど、いまだに分からないのは、その場所にパッと気がついたら、ブドウ畑にお兄ちゃんとお母ちゃんがいると。特に弟を連れて私も立ってる。なんぼ考えても、その場所に弟を連れて私が一生懸命1日かけてそこに行ったのか、誰かが連れに来て、探してくれて、そこまで行ったのか、それは全然分からない。意識もいまだに分かりません。

うちの家は、お母ちゃんお兄ちゃん、お姉ちゃんも原子爆弾によって亡くなったから、大やけどしたから、それで弟もいまいるけどね、一度も原子爆弾の話を、原爆の話をしたことがないんですよ。あとから考えたら、お母ちゃん、どうしてそこに、ブドウ畑に私と弟がおったの? 誰か連れに来たの? とか、お兄ちゃんどうだった? と聞きたいぐらいの話ですけどね。一度もそういう原爆の話はしたことがない。そんな、恐ろしすぎて悲しすぎて、もう怖すぎて、原爆のげ、その言葉の、その一言も言えない。いまだに弟とは原爆の話は一度もしたことがありません。 それが分からないんですよ。意識がない。ハッと気がついたら、もう忘れもしません。あー、お兄ちゃんお母ちゃん! と言って再会して、ブドウ畑に避難してましてね。お母ちゃんも誰かが何かで運んでくれたのかしら、足にガラスが刺さったままでしたし、体にも刺さったままですよ。もうすごいと思いましたよ。お母さんというものは。本当にすごいと思いました。ガラスが刺さったままでもブドウ畑に避難してて、それで歩けないから、ちょっと座ってて、ちょっと動かしたりはしてたけど。それで、自分でガラスをパンと取って、そこらの草を取って、よもぎを取って、パーンと石で潰して、それを付けてるんですよ。へー、というぐらいで。

それでガラスの刺さったままで、ブドウ畑で再会して、ひょっと気がついたら、お姉ちゃんがいない。お姉ちゃんは? 言ったら、帰って来てない。えー! と言って、お姉ちゃん、帰って来てないの? 労奉仕に行ってるから。行って出かけてるから、どこでどうなったのか分からない。じゃあ、お兄ちゃんも手をやけどして、くくって、座ったまま、お母ちゃんはガラスがいっぱい刺さってるし動けない。じゃあ、勲。お姉ちゃんを探しに行こう。二人は母に助けられて、母が被さってくれたから、ガラス一つ刺さってないし、それで、熱も当たってないし、家の中だったし、光も当たってないし、それはパッと逃げるのに出たときには放射能はすごく浴びたと思うんですね。雨のごとく放射能は降ってたというから、浴びたと思うんですね。でも動けるから、勲、お姉ちゃんを探しに行こうと言って、二人が広島の、死んでる人、どこからともなく兵隊さんが出てきて、担架というのかな、あれを持ってきて、道端で死んでいる人を担架に乗せて、それをいまで言う体育館ね、講堂みたいなところ、屋根があるところは、そこに死んだ人を連れてきては、ずっとそこで置いてるんですよ。川で死んでる人は、また川からすくって、それでまたそういう講堂みたいなところで、屋根がちょっとあるようなところで、人間を連れてきて、ずっと寝かしてるんですよ、いっぱい。

いろんなところに行きました。広島の市内、ずっとお姉ちゃん! と。お姉ちゃんって、てんこというんですけどね。てんこ姉ちゃん! てんこ姉ちゃん! と言って、弟と二人が大きな声を出して、無心で至るところへ行って、お姉ちゃんお姉ちゃん、てんこ姉ちゃんと言って。 1日目は、分かりませんでした。もうそこ、場所に入ると、死んだ人の匂いもすごいですし、そんなことなんか構ったものじゃないです。お姉ちゃんを探さないとだめなんだから。それでまた2日目ぐらいかな、また、勲、お姉ちゃん探しに行こうと言って。それでまた人がいっぱい死んで、兵隊さんもどことなく出てきて、一生懸命、死んだ人を寝かしてるから、そこへずっと、お姉ちゃんお姉ちゃん。パッと見ても、外で死んでる人は形も何もないんですよ、もう。ドロドロで。本当にお姉ちゃんが誰か分からないぐらい、もうすごいんですよ、原子爆弾というのは、本当に。 ドロドロに溶かしてる。

てんこ姉ちゃん! てんこ姉ちゃん! 2日目ぐらいに、てんこ姉ちゃん! と言ってずーっと遠くまで、死んでる人を寝かしてるところは、遠くまでずーっと探しに行って、それでいっぱい寝かしてるところで、てんこ姉ちゃん! てんこ姉ちゃん! と言いながら探してるときに、遠くのほうで、あぁ…というような声が聞こえたんですよ。耳がちょっと聞こえてたんでしょうかね。てんこ姉ちゃん! と言ったら、あぁ…というような声が聞こえて、はぁ…と言ってるのか、うぅん…と言ってるのか。あー! てんこ姉ちゃんや! と言って、勲、お姉ちゃんや! と言って、ダーッと走ってそこに行ったら、ひょっとみたら、お姉ちゃん。5年生ですよ。全身やけど。もう、本当にお姉ちゃん?というぐらいの。目もつむっていたし、でもお姉ちゃんなんですよ。もう全身やけどでもお姉ちゃんなんですよ。あー! お姉ちゃんや! と言って。お姉ちゃんも、母に会うため、兄に合うため、私や弟に会うために頑張って生きとってくれたと、あとから思ったんですけどね。

それで、そこはまた意識がないんですよ。意識はないんだけど、私は、兵隊さんが担架を持って運んでるところに行って、兵隊さんに言ったと思う。兵隊さん、うちのお姉ちゃんだから! お母ちゃんとお兄ちゃんのいるブドウ畑に連れてって! と言ったと思うんですよ。だから、母とお兄ちゃんがいるブドウ畑に、お姉ちゃんを連れてきて、会うことができたんですよ。 それも、ブドウ畑ね、私も弟とも、いまだに一度も原爆の、原子爆弾の話をしたことがない。だけど、弟がよくテレビで話をしてる。お姉ちゃんが亡くなった、原子爆弾で亡くなりました、大やけどで。そして、ブドウ畑に連れてきてもらって、ブドウを一つとって、口に、食べられませんよ、口をつむってる。でも口に含んでやったんやと言う、やりましたよと言うのを、テレビで話してるのを聞いたんです、私が。だから、それを見て、あぁ、やっぱりそうだったんや。ブドウ畑で、やっぱりお姉ちゃん、お母ちゃんもお兄ちゃんもおって、勲がブドウをとって、口に含んでやったんやと。それで、弟に後々、あんたお姉ちゃんにブログ畑でブドウを含んでやったんか? そういうことも一切話せません。とにかく、そういうことは恐ろしくて、怖くて、悲しくて、話せません。聞いたこともない、話したこともない。

で、含んだから、あぁ、そうなんや、というのはもう分かりましたけど。私が分かってるのは、お姉ちゃんが全身やけどで、ブドウ畑に母とお兄ちゃんがいるところに連れてきてもらったときには、小さい声で、口も開いてませんし、目もつむってますし、それで耳がちょっと聞こえてたのかしらないけど、暑い(熱い)暑い(熱い)…ばかり言ってるんですよ。それで、うちわで扇いでやった。その記憶があるんですよ。いまでも思い出したら、可哀想で、もう大やけどで、寝かせたままで、何もできません。死ぬの待たないとだめな状態なんですよ。もう何もできないような状態で、全身やけどですからね。食べられもしない、目はつむってる。寝かされて。で、意識的に小さい声で言うのが、私に聞こえたから、うちわでこうして扇いでやったと思うんですけどね。それで、翌日ぐらいかな、母が、もうすごく悲しんで、自分を悲しんで悲しんで叩きながら、大泣きしてたの。あぁ、これでお姉ちゃん、ここでもう、お姉ちゃんが死んだんや! と言うのが、そこで初めて分かって、お姉ちゃんが亡くなったんや、と言って。それで、その次の日ぐらいに、いなくなったんですよ。5年生のお姉ちゃん、何か悪いことしたんですか? 何にも悪いことしてない。あんな可愛くて優しいお姉ちゃんが殺されて、原子爆弾で。うちの姉だけじゃありませんよ。一瞬に14万人の人が原子爆弾で殺されて。1945年の11月には、30万人以上の人が死んでるんですって。

本当に戦争、核兵器は恐ろしい。二度とあってはいけません。こういう恐ろしいことは二度とあってはいけません。もうこれからは原子爆弾じゃないんですよ。水爆なんですよ。水爆だったら一瞬で全てなくなる。 原子爆弾も全てなくなる。だから小学生にも言うんですよ。小学生って、中学生って、戦争とか核兵器とかの意識はあまりなかったみたいで、20年前ぐらいから私はずっと話をしていくと、あぁ、戦争って怖いんやと言って。戦争ってかっこいいんやでと、小学校とか中学生から20年前ぐらいに聞いたことがあるんですよ。何を言ってるのよ! 何が戦争がかっこいいのよ! それはゲームの中だろう! とか言って、本当に怖いんやで戦争は! と言って、もう全てなくなるんだぞと。戦争というのは、親も両親が亡くなる、友達が亡くなる、先生が亡くなる、国がなくなる(亡くなる)んだよ! 自分が亡くなるんだよ! ということを言ったら、あっ、そうなんだという意識を持ったみたいです。 本当に戦争や核兵器は恐ろしい。もう二度とあってはいけません。

 

市民社会フォーラム協賛企画
非核の政府を求める兵庫の会 市民学習会
『元プロ野球選手・張本勲の姉が語る
 被爆の実相と核兵器廃絶の願い』
日時 2018年9月8日(土)14:00~16:00
会場 兵庫県保険医協会6階会議室
講師 小林愛子 さん(広島被曝体験語り部)
主催 非核の政府を求める兵庫の会
協賛 市民社会フォーラム

小林愛子(こばやし・あいこ)さん
小学1年生の時に、広島で爆心地から1.5㌔の自宅で被爆。
5歳だった弟・張本さんの手を引き逃げたが、小学高学年だった姉は死亡。加古川市在住。県内の小学校や市民団体の集まりなどで被爆体験の語り部として活動。核兵器禁止条約を求める「ヒバクシャ国際署名」運動で自ら先頭にたち、400筆近い署名を集めている。今年80歳。

■次回の市民学習会
日本はなぜ「核の傘」を手放さないのか
日 時 11月17日(土)15:00~17:00
会 場 JEC日本研修センター 神戸元町
講 師 太田 昌克 さん(共同通信編集委員)