同志社大学で教鞭を執る岡野八代教授による講演です。講演で岡野教授は、安倍政権が進める安保法制(いわゆる戦争法)に強い懸念を示すとともに、平和憲法をないがしろにするこのような法制や改憲に向けた動きがまかり通ってしまう背景として、日本における代議制民主主義の破綻を理由として挙げました。とりわけ、2014年の衆院選では、有権者のわずか4分の1からしか票を得られなかったにもかかわらず、与党が圧倒的な勢力を持ち安保法制成立を強行した現状を解説。さらに、フランス革命を機に、かつての絶対君主制から民主主義の時代へと変革しつつも、いまだに世界から戦争がなくならない実情を示し、民主主義の持つ「歯止めの効きにくい特性」にも警鐘を鳴らしました。特に、「戦争は引き返すことのできない人権侵害である」とし、大戦の悲劇を教訓に、個人の尊厳を守るために制定された現行の日本国憲法を守ることの大切さを説きました。
◎講演録(要約)
目次
- ◆憲法を知らない安倍首相
- ◆代議制民主主義は破綻している
- ◆わずか4分の1の支持で安保法制を牛耳った自公
- ◆市民たちの関心と政治的争点のズレ
- ◆民主主義と絶対君主制
- ◆近代民主主義によって「個人」が見い出されていく
- ◆民衆が自分たちの法律をつくること=自律
- ◆ルソーの「社会契約」
- ◆フランス革命の「もうひとつの側面」
- ◆フランス革命が示す「歯止めの効かないシステム」
- ◆カントによる「常備軍」への批判
- ◆人権に対する最も侮蔑的な侵害は、政府による人権侵害である
- ◆自民党はかつての「身分制ピラミッド」をつくりたいのか
- ◆やはり憲法9条は画期的
- ◆日本の代議制民主主義は形骸化している
- ◆民衆の声が反映されないと絶対君主制と似たものになる
- ◆戦争は引き返すことのできない人権侵害
◆憲法を知らない安倍首相
国会の与党勢力が過半数あるため、非常に暴力的な形で審議も満足にせず、安保関連法(いわゆる戦争法)が簡単に通ってしまいました。その教訓から、参院選に向けて多くの市民が野党共闘を求めて声を上げ、ようやく参院選の1人区すべてに野党共闘の候補者が立ちました。一方で、日本の政治の動きは、舛添都知事であるとか、あるいはベッキーの不倫など、特にメディアを通じて新しいニュースをどんどん流しています。まるで、私たちにとって本当に大切なことは何かということを忘れさせるかのごとく、です。
安倍晋三首相は改憲を目指していますが、国会の3分の2以上の賛成の発議があって、ようやく国民投票がおこなわれる決まりとなっています。これについて安倍首相は、「たった3分の1の政治家が反対しているからといって、憲法改正ができないのはおかしい」とし、96条改正に手をつけると言いました。ほかの一般の法律と同じ感覚で憲法を動かせると考えているわけです。ここまで露骨に「まずは96条から」と言ったことに、多くの人が驚きました。特に、憲法学者や政治学者は、「憲法のことをここまで分かっていないのか」と批判しました。憲法は、ほかの法律とは全く違う性格を持つものです。国家はなぜ存在しているのか、国の基本的なことをはっきりと書き込んで、政治家たちに、「あなたたちは何のために働いているか分かってますね?」ということを憲法は伝えているわけです。にもかかわらず、ほかの法案と同じ感覚であるということに、とにかく私も驚きました。
◆代議制民主主義は破綻している
そもそも民主主義がなぜ大切なものと考えられているのでしょうか。本来であれば、皆さんひとりひとりの声をちゃんと法律や制度に反映させる、それが民主主義のそもそもの精神であり核となっていた考え方です。民主主義の精神を実現するために、最善とは言わないけれども、これ以上いい仕組みが見つからないのが代議制民主主義だと言えます。
ところが代議制民主主義は、いま破綻しています。「いまは民主主義的な国家なので、かつての第二次世界大戦あるいは、かつて日本が犯した15年戦争のように、天皇制の下での戦争なんかには参加しない。民主主義なんだから、そんな心配はしなくていいですよ」といったことを安倍首相も言います。
実際に政治学の中でも、「デモクラティック・ピース論」、すなわち、民主主義的な国家同士は戦争をしないという議論が一時流行ったことがあります。確かに米国はいろんなところと戦争していますが、戦争は民主主義国家に変えさせるためという大義名分で戦争をしています。米国からすると、相手が民主的じゃないから戦争を仕掛けているんだということになります。
ですが、安倍首相の言うように、民主主義だからといって、本当に戦争をしないと信じていいのでしょうか。
◆わずか4分の1の支持で安保法制を牛耳った自公
私は、代議制民主主義は破綻していると考えています。2009年の政権交代が起こったときと、その前後の2005年と2012年、前々回の衆院選。注目してほしいのが自民党の議席占有率です。2005年は61.7%もありました。ところが絶対得票率(有権者全体の中の得票率)は25.1%でした。絶対得票率とは、有権者全体の中の得票率なので、棄権した人も100%の中に入っています。つまり、棄権した人も入れると、自民党は25.1%しか獲っていません。2005年、自民党は2588万票獲得し、得票率(投票に行った人の中の割合)は38.2%です。自公が与党ですから、公明党の989万票(得票率14.8%)を加えると過半数を超えます。
政権交代が起こった2009年は、民主党に多くの人が投票し、2984万票を獲得しました。得票率(投票した人の中の割合)は42.4%。2005年(2100万票)から800万票積み上げて政権を獲得しました。対するに自民党は1881万票(得票率26.7%)で、前回から700万票減らし下野しました。しかし、そのあとは、東日本大震災が起こり、沖縄の基地問題が起こり、多くの人が民主党政権への信頼を失いました。
そして3年後、なんと民主党の得票数は前回の2900万票から2000万票も減らし900万票にまで激減しました。どこに行ったかというと、突如として現れた日本維新の会に1200万票。自民党も200万票減らし、公明も90万票減らし、共産党も130万票減らし、社民も150万票減らし、トータルでは前回衆院選よりも投票総数が1000万票も減っています。これらの多くは棄権に回りました。彼らは、民主党政権になってからも何も変わらず、むしろ公共事業をずいぶんカットして不況になったことなどで失望し、投票に行かずに棄権したわけです。
民主党が2012年の衆院選で前回よりも2000万票も減らす一方で、自民党は議席占有率がほぼ回復(2005年は61.7%、2009年は24.8%、2012年は61.3%)しました。ところが、絶対得票率は回復どころか下落(2005年は25.1%、2009年は18.1%、2012年は16.0%)しています。ということは、自民党の投票数は、有権者の5人に1人にすら達していないことになります。2014年の衆院選では、自公あわせて2500万票ぐらいでした。いまの自公の絶対得票率は、2005年の自民党単独で2500万票を獲ったとき(25.1%)と同じぐらいの水準です。
そこから何が言えるかというと、現在、自公が衆議院で確保している議席は、有権者全体のわずか25%の投票数で決まったものです。つまり、与党を支えている有権者は、わずか4人に1人しかいません。にもかかわらず、非常に重要な憲法をめぐる議論、安全保障をめぐる議論が、この一部の政治家たちに牛耳られているのは異常です。これは、民主主義が破綻していると言えます。
ただ、「4分の1」によって議席を得た彼らを支えている大きな母体のひとつは、「投票に行かなかった人たち」です。それは非常に大きいです。2014年12月の総選挙は52%しか投票率がなく、48%の人が投票に行っていません。問題は、この点にあります。政治に無関心あるいは選挙の投票に行っても何も変わらないとあきらめた人たち。そういった人たちが、今の民主主義のシステムにおいて、半分を占めています。やはり何かがおかしい。これは多くは政治教育の問題だと思います。政治教育をほとんどしていません。なぜ政治が大切か、民主主義とは何か、憲法とは誰に向かって何を守るためにあるのか、といった根本的な議論を恐らく戦後ずっとしてこなかったツケだと私は思います。
◆市民たちの関心と政治的争点のズレ
本来、私たちの関心や想いが民主主義を動かすはずです。私たちの想いを、制度や法律に反映させるのが民主主義です。最初の消費税の導入時は、土井たか子氏率いる社会党が圧勝し、「山が動いた」と言いましたが、いまは多くの人々が8%にも慣れっこになってしまっています。それどころか、政治が何を決めているのかということにも、私たちは関心を失い始めています。
これは朝日新聞の世論調査です。参院選で重視することを訊ね、その政策別に投票予定の政党を訊いたものです。「景気・雇用」を重視する人が全体の30%を占め、その人たちの53%が自民党に投票すると回答しています。とりわけ、自民党支持者の多くは、「景気・雇用」や「社会保障・福祉」を重視しています。一方、「景気・雇用」を重視する人のうち、民進党に投票すると回答した人は17%、共産党は5%に留まっています。他方、憲法を重視する人のうち、自民党に投票すると答えた人はわずか19%しかいません。一方、民進党は42%、共産党は18%と高めとなっています。この世論調査の結果について、裏を返せば、自民党を支持すると答えた人は、必ずしも憲法改正にこだわっているわけではないとも言えます。
◆民主主義と絶対君主制
そもそも、民主主義は、紀元前5世紀の古代アテネで生まれました。当時アテネは戦争が非常に多く起きました。軍隊の義務を果たす男性市民のみが参加する直接民主制とされ、その連帯感により「戦士の共同体」とも呼ばれました。一方で、当時は選挙権のない女性・子供・奴隷などが25~30万人いたとされます。
そしてフランス革命です。ヨーロッパでは、絶対君主制のもとで領土があり、その領土に生きる全ての人々(臣民)を主権者である君主が統治できる仕組みとして、絶対君主制を背景にした主権国家が存在していました。特に16~17世紀のヨーロッパでは、絶対君主制のもとで、キリスト教義の解釈をめぐりカトリックとプロテスタントとの間で壮絶な宗教戦争が起こりました。宗教の権威に加え、武力や富を持った世俗的な権力者など、宗派の違いや権力分散によって内戦が頻発し、国内がとんでもないことになりました。そこで、武力を一手に集中し、その他の大勢の人々は武力を持たない体制としました。すなわち、「君主」「貴族・僧侶」「市民層(ブルジョア)」「農民・小作人(無産階級)」といったピラミッド型の階級制のもと、神の指示命令を受けた君主の意思によって領土を統治するという仕組みができていきました。
ピラミッド型の身分制度においては、君主や貴族が下層階級から税を吸い上げていました。身分制度の中で「人」は、生まれたときの身分で一生が固定されました。たとえば貴族の子として生まれたら、貴族としての役割が期待され、人としての価値は、貴族として価値になります。
日本語では「分相応」とか「分際」という言葉がありますが、社会の「部分」としての価値が決められている、しかも制度なので一生変わらないという点に嫌悪感を覚えます。「女のくせに」「巫女のくせに」にといった議員の暴言にもあい通じるものです。つまり、変化しようのないもので人としての価値が決められてしまうのです。また、絶対君主制においては、君主は、神様からこの地域を支配しなさいと命令されたものとされます。そのため、君主に逆らうことは神様に逆らうこととされ、厳しく罰せられました。そしてフランスで、その絶対君主制や身分制度を民衆の力で転覆させる革命が起きました。
◆近代民主主義によって「個人」が見い出されていく
フランス革命では何が起こったのか。まず「神様」を否定しました。政治的に神様を否定するので、君主には何の権威もなくなった。そして身分制度もなくなりました。フランス革命以後の近代民主主義においては、「個人」という仕組みが発見され、身分制度から自由になりました。このような制度から解放され、宗教の自由、表現の自由、思想信条の自由、結社の自由など、日本国憲法にも書かれている個人の自由が、このころに見い出されていきました。
個人の登場が「人権」の発見にもつながったわけです。樋口陽一先生の著書「憲法入門」には、「身分制的な社会編成を解体して、国家が権力を一手に集中し、諸個人対国家の二極構造をつくりあげることが必要」「国家への権力集中=主権の成立こそが、個人の解放=人権の成立を可能とする要素であった」とあります。いままでは国家の君主制のもとでいろいろな身分制度がつくられ、階級がつくられていました。その階級を取り払って、個人の自由を保障する国家を民衆の力でつくりあげていったことを示しています。
これまでは身分制の中の一部分でしかなかった「人」は、フランス革命以降、これ以上分割できない個(individual)の人となりました。individualとは、「デバイド(分割)できない」という意味から来ています。すなわち、これ以上分割できないような一個の存在として、つまり何ものでもなく、個自身が全体であるという考えです。元貴族であろうが元農民であろうが、同じ重さの価値を持ったひとつの存在というものが、フランス革命によってようやく発見(確立)されたわけです。そして、「生まれながらにして自由で平等」ということを、身分制の否定とともに発見されました。
◆民衆が自分たちの法律をつくること=自律
すべての人々には、諸個人の尊厳、すなわち「幸せになりたいと思う価値」が備わっています。幸せになりたいと思うひとりひとりの幸せ観を、なるべく尊重すること。立憲主義では、それを国家の役割であるとみなしますが、これは民主主義も同じです。人々は生まれながらに本来自由で平等であるはずですが、どうすれば強制法(ひとりひとりが守らなければならない義務を課せられた法律)のもとで生きていても、なお自由でありうるのでしょうか。それは、「民衆が自分たちの法律をつくればいい」という答えになります。これが、「主権在民」で一番大きな意味を持ちます。そこには「自律」の精神があります。他人が決めた法律に従わざるをえない「奴隷」に対し、自分たちで決めた法律に従うのは「自律」です。
◆ルソーの「社会契約」
近代民主主義について、ルソーの考えた図があります。個人個人は不平等な状態に置かれています。それを解決する方法として、ルソーは「社会契約」という概念を考えました。身分制の崩壊によって、個人個人はそれまでの個人の権利を、一般意思という名の主権が支配する共同体(すなわち共和国)という社会全体にいったん譲渡します。そこから、それぞれの個人が、国民として同等の権利を受け取ることで、「法の下の平等」が担保されるという考え方です。
みんなが持っているいろいろな意思から共通の意思を見い出し、そのもとで政治を行う。そして、民主主義を信じるということは、私たちが主権者であることを忘れないということです。そのことの意味は、本来、自分が欲した法律にのみ従っていればいいという状態のはずです。政治や政府は、ひとりひとりの生や安寧、そして自由を保障するためにこそ存在しているのです。
主権在民の民主主義国家はそのシステムのはずですが、いま私たちに起こっていることは、必ずしもそうではありません。民主主義が本当に機能しているか、私たちの意思が法律に反映されているか、代議制のもとでチェックすることがほとんどできなくなっています。ですから、常に危険がつきまといます。法律や社会は、権力者が、「弱者である皆さんのために法律をつくった」と言って、「全人類を労働と隷属と貧困に屈服させた」とルソーは厳しく批判しています。
◆フランス革命の「もうひとつの側面」
フランス革命は、「主権在民」を確立したとされますし、個人ひとりひとりの価値、尊厳、自由を見い出したとされます。ところが、フランス革命にはもうひとつの側面があります。フランス革命のあと、フランスは戦争を始めます。それまでの軍隊は、君主が持っている傭兵(高給で雇われた兵士)が担っていました。フランス革命以降は、周りの国々がフランスを攻撃し始めます。絶対君主制を否定したフランス革命が自国に飛び火することを恐れたためです。それに対し、フランスの国民軍(一般国民から兵を募った軍隊)を率いるナポレオンは、プロイセンなどを攻撃します。フランス民衆はナポレオンを歓迎し、彼は総裁になります。
絶対君主制を敷く各国の傭兵軍がフランスの国民軍に敗れる中、プロイセンなど周辺各国は、傭兵よりも国民軍のほうが強いという現実を目の当たりにします。しかも、傭兵のように高給が必要ない点にも注目しました。そして、周りの国々もフランスをまねて国民軍を編成し始めます。
これらのことから言えるのは、いまのように軍隊と言えば国を守る(これまでは君主を守っていた)というイメージをつくった原型のひとつが、フランス革命であるという側面です。そして誕生したフランスの国民国家体制は、やがて周辺各国にナショナリズムを焚きつけていきます。すなわち、お金で雇われた傭兵よりも、国民に教育をして愛国心を植えつけ、国民を兵士にして戦わせたほうが強いと周りが思い始めることとなったわけです。
◆フランス革命が示す「歯止めの効かないシステム」
フランス革命は、国民主権が端緒です。絶対君主制と戦うために国民軍が立ち上がりました。これまでの戦争は、絶対君主のもとで君主の領土を拡げるために戦争を仕掛けていました。これに対し、フランス革命以降の憲法(1791年憲法)には、「征服の目的を持ったいかなる戦争をおこなうことを放棄」「その武力をいかなる人民の自由に対しても行使しない」と書かれています。これは、フランス革命までの軍隊は、国民を守るものではなくて、君主の領土を守るものであり、ときには武力を人民に向けるものだということが分かっていたので、憲法にこういう規定があるのだと解釈できます。
つまり、フランス革命も本来は主権在民で、フランス人権宣言も出し、憲法もつくりました。ただ、実際に戦争をする中で、ナポレオンに政府が独占されていきます。そして、国民国家(主権国家)あるいは国民軍は、国民主権の実態を伴わないときには、歯止めが効かない、戦争に駆り立ててしまう、非常に恐ろしいシステムとして機能することを示しました。フランス革命後、民主主義のもとで「国民軍」が各国に拡がったけれども、その効果は皮肉にも、戦争になると、主権国家という名のもとで、歯止めが効かずに国家が暴走するようなシステムを私たちはつくってしまったということです。
そのことを示した典型例がかつての日本です。明治に創設された陸軍は、フランスの強さに魅せられ、それをまねたとされます。当時、天皇主権の近代国家をつくるうえで、国民は臣民としての地位でしかなかったのですが、天皇に従う兵士をつくりあげなければならない。そのため、強力な教育をおこなうことで、天皇に忠誠を誓う国民をつくりあげました。加えて、国は忠誠を誓わない反逆的な人を暴力的に抑圧する体制もつくりました。
また、最近でも、民進党の小西洋之参議院議員が、安保法制の決定過程について「クーデターだ」と批判したことについて、安倍首相は「国民の選挙を通した意思の結果が、安倍政権だ。その政権の閣議決定をクーデターと呼ぶこと自体が、基本的に間違っている」と発言しました。これについては、軍隊を動かさないにしても、一部の政治家たちの数の暴力によって、国家に対する一撃=クーデターが加えられたのと同じであると言えます。
これまでの戦争と民主主義の関係を考えていくと、「日本は民主主義国家なのだから、かつての天皇制のときのような戦争をしません」といっても、それを守り抜くのはなかなか難しいことが分かります。
◆カントによる「常備軍」への批判
世界の多くの国々は「国民軍」、日本においては自衛隊を持っていますが、軍隊を持たない国はごくわずかしかありません。人民主権、そして、わたしたちに生まれながらにして尊厳が備わっていることを考えると、戦争放棄、武力放棄という思想も表れてきます。ドイツの哲学者カントは「永久平和論」において、共和政体(ひとりひとりの権利を尊重するような政治体制)であれば、軍隊は成り立たないことを示しました。
また、「常備軍を持っている国は、他国に対する敵意を温存しており、平和の理念に反している」としました。加えて、常備軍の兵士について、「人を殺害するため、または人に殺害されるために雇われ、国家が機械や道具として人間を自由に使用するということ」としています。このカントの考え方は、常備軍という存在は、個々人に備わった人権にそぐわないと批判するものです。実際、常備軍の存在によって、軍事産業や軍事研究によって軍拡競争を生み出し、軍備による多額の財政負担を解消するために戦争を仕掛けるのは、とりわけアメリカが如実に示しています。
◆人権に対する最も侮蔑的な侵害は、政府による人権侵害である
現在の民主主義は、20世紀に世界を席巻した悲劇的な総動員戦争から学んだものです。第二次世界大戦では約5000万人もの人々が亡くなりました。
最も死者が多いのは中国で、約1000万人が犠牲となっています。
この反省に立ち、世界人権宣言や国連憲章の制定がおこなわれました。国連憲章は武力放棄を基本原則としており、日本国憲法9条にも通じる思想が反映されています。世界大戦を経て、人類の「智」は何を学んだのか。それは、「人権に対する最も侮蔑的な侵害は、政府による人権侵害である」ということです。
アメリカの思想家トマス・ポッゲは「政府は、不正な法や、人権侵害を認めたり要請する法令を立法したり維持したりして、(人権を)侵害する。あるいは法を騙る、すなわち人権侵害する政策を許可するように現状の立法を解釈することで、(人権を)侵害するかもしれない」と2002年に著書で書いています。まさに、いま日本政府がやっていることそのものだと思います。戦争という、「政府による人権侵害」を二度と起こさないこと。その方法のひとつが憲法9条です。この、戦争の反省のもとにつくった、「人権を守るための憲法」を、いま覆そうとしているのです。
◆自民党はかつての「身分制ピラミッド」をつくりたいのか
日本国憲法で、権力は国民の代表者が行使し、福利は国民が享受するということを、「人類普遍の原則」とはっきり明言しています。そして、これに反する一切の憲法、法令、詔勅を排除するとはっきり規定しています。ところが、自民党がつくった改憲草案では、「天皇を戴く国家」などと明記しています。これは、かつての「神様の下に君主がいる貴族制」を彷彿とさせるものです。自民党は、君主制あるいは神に近いような存在を頂点とする「身分制ピラミッド」をつくりたいのでしょうか。
◆やはり憲法9条は画期的
フランス革命以降、世界が学んだこと。それは、「国家は市民を守らない」「軍隊は市民を守らない」ということです。だから、市民は常に国家を監視しなければならないのです。その点、憲法9条はやはり画期的なものです。戦争によって最も多くの被害を受けたのは国民です。軍隊とは政府を守るものであって、市民を守らないものであるということが分かった。だからこそ、憲法9条は戦力を放棄したわけです。つまり、戦力に対する国民の抵抗権という発想も込められていると言えます。
日本国憲法は、国際協調、普遍的な人権の尊重、平和的生存権こそが民主主義を可能にすると謳っています。つまり、他国を侵略する軍備を持たず戦争を放棄し平和だからこそ、民主主義が可能になる、そして、戦争を準備する国づくりは、市民から主権を奪い取ろうとしているものだと解釈できます。
◆日本の代議制民主主義は形骸化している
民主主義とは、「市民が、自分たちが従いたいと思う法にのみ従いながら、平和に共存できる仕組み」であり、それを実現するための媒介物です。その役目は、本来は国権の最高機関である国会が担います。国会は私たちの意思を反映した法律をつくる場所です。
ルソーは、自著「社会契約論」において、「人民の代議士は、代表者たりえない。彼らは人民の使用人でしかない」と語り、代表制の民主主義を厳しく批判しています。つまり、「我々の意思は誰も代表などできない。我々の意思は、ひとりひとりが自分で伝えないといけない」ということです。さらに、「人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない」とまで言い切っています。そして、国家と国民の関係については、「個人の権利や尊厳がまず存在し、それを守るためにのみ政府は存在する」「執行権を任された人(政府)は、人民の主人ではなく、公僕である」と明言しています。つまり、国家は人民の権利や尊厳を守るための道具という考えだと言えるでしょう。
にもかかわらず、冒頭にも述べたように、有権者の多くが棄権しており、いまの日本の代議制民主主義は形骸化してしまっているのが実情です。
◆民衆の声が反映されないと絶対君主制と似たものになる
フランス革命では、明らかに民衆の力によって君主を入れ替えるという大きな変化が起こりました。けれども、かつて絶対君主制においては、主権者は君主だった。では、民衆がそこに座ったからといって、民衆の声が主権に反映されなければ、もとの絶対君主制と非常に良く似たものになる恐れのあるシステムでもあります。その結果、長谷川三千子氏(政治評論家・埼玉大学名誉教授)の「代表はあくまでも自分たちが選んだのであって、そのことを忘れては主権は成り立たない。安倍ヤメロ、日本死ねと口汚く罵ればよいと思っているような人は、とうてい主権者とは言えない」といった主張も出てくるわけです。
◆戦争は引き返すことのできない人権侵害
いくら民主主義の体制が敷かれていても、いざ戦争状態になると、本来国民ひとりひとりが持っているはずの主権が、ある一局に集中しやすくなります。本来ひとりひとりが持っている主権の声を聞かなくてもいいような仕組みを、戦争状態だとつくりやすいです。つまりこのことは、権力者にとって、戦争状態は、最も自分の意思で国民を奴隷のように都合よく使うことができてしまうことを意味します。民主主義には失敗もあります。失敗すれば反省し、やり直せばいいのです。ただ、引き返せない失敗があります。それは戦争です。戦争は引き返すことのできない人権侵害なのです。【了】
◎講演概要
日時:5月26日(木)18:30~20:30
会場:シアターセブン BOXⅠ(大阪・十三)
講師:岡野八代さん(同志社大学教授、憲法96条の会代表)
三重県生まれ。早稲田大学大学院 政治学研究科修了。
立命館大学法学部教授を経て、2010年 から同志社大学大学院グローバル・スタディーズ科教授。
専門 は政治思想、フェミニズム思想。京都96条の会代表。
安全保障関連法に反対する学者の会、関西市民連合など市民運動にも取り組む。
著書に 『フェミニズムの政治学』(みすず書房)、『戦争に抗する-ケアの理論と平和の構想』(岩波書店)など多数。