原爆孤児~「しあわせのうた」が聞える

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■□■市民社会フォーラム協賛企画■□■
非核の政府を求める兵庫の会 市民学習会
  原爆孤児~「しあわせのうた」が聞える

日 時 2015年11月7日(土)14:30~16:30
会 場 兵庫県保険医協会5階会議室
講 師 平井美津子さん(中学校教諭、子どもと教科書大阪ネット21事務局長)
主 催 非核の政府を求める兵庫の会

 『原爆孤児 「しあわせのうた」が聞える』を著した平井美津子さんに、著書に込めた反核平和の思い、教育者として戦争の歴史を伝えることの大切さについてお話いただき、被爆・敗戦70年の現在、わたしたちが未来に向けて振り返るべき過去について交流いたしました。

■平井美津子(ひらい みつこ)さん
大阪・吹田市立第一中学校教諭。歴史教育者協議会。子どもと教科書大阪ネット21事務局長。編著書に、シリーズ戦争孤児③『沖縄の戦場孤児』(2015年、汐文社)、平和を考える戦争遺物④『沖縄戦と米軍占領』2014年、汐文社)、シリーズ戦争遺跡②『戦場となった島』(2010年、汐文社)など。

■『原爆孤児 「しあわせのうた」が聞える』(2015年、新日本出版社)
両親の突然の理不尽な死、何が起きたかもわからぬまま傷を負った心。そんな原爆孤児たちを支援した「精神養子運動」と、それを担った作家の山口勇子らの思いを丹念な取材で記録。「父さん、母さんはなぜ死ななくてはならなかったの?」との問いかけに光を当てた、被爆70周年にこそ読みたい感動のノンフィクション。

記事 「原爆孤児」テーマに「戦後をどう生き抜いたか」を学ぶ

非核の政府を求める兵庫の会は11月7日、「原爆孤児『しあわせのうた』が聞こえる」(20155年、新日本出版社)の著者・平井美津子さんを講師に、兵庫県保険医協会会議室で市民学習会を開催しました。平井さんは大阪・吹田市立第一中学の現役教諭で、歴史教育者協議会に所属し、子どもと教科書大阪ネット21の事務局長でもあります。

再び戦争・原爆孤児をつくらない

平井さんは、新著に込めた反核平和への思い、教育者として戦争の歴史を伝えることの大切さを、自らの体験をもとに熱く語り、被爆・敗戦70年の節目に、私たちが未来に向けて今振り返るべき過去について交流しました。
立命館大学日本史学科の学生時代に広島への研修旅行で、「被爆体験だけを原爆体験と思っていたが、生き残った人、とりわけ原爆孤児たちは戦争が終わっても、そこからが生きて行くためのたたかいだった。孤児たちは、苦闘の戦後をどう生き抜いたのか、それこそが重要」と学んだのが原点。この時から広島行きを続けて、丹念な聞き取りを重ね、「語り手が戦後を生き抜き、語る(語れる)場所(時空間)に辿り着くまでが戦争(原爆)体験」「再び戦争孤児をつくらない、核廃絶、不戦反戦反核という理念に引き継がれるとき、本当の意味で戦争体験が継承されたと言える」と強調しました。

山口勇子さんに出会って

なかでも、「おこりじぞう」をはじめ、児童文学で名高い山口勇子さん、彼女が実質的に推進した「精神養子運動との出会いが大きかった」、と言います。広島市およびその近郊にある11の孤児収容所、市内の親戚・知人の家に養育されている原爆孤児の数は、推定1000人以上。これは1954年の厚生省調査によるもので、終戦直後には、もっと膨大な数だったはずです。
そうした子どもたちに、最高18歳になるまで毎月1000円と愛の手紙を送り続けることによって、精神的な親子縁組を行う「精神親子運動」は、自らも被爆者である広島大学の長田新さんが発案し、その運動を推進したのが、広島子どもを守る会(1953年2月発足)で、慈善事業ではなく、平和運動の一環としてやり抜く」というのが基本的な考え方。その子どもを守る会の副会長として、実質的に運動を展開し、後に日本原水協の筆頭代表理事になった山口勇子さんは「原爆被害によって〝家庭〟を失った子ども達にとって必要なのは、〝母さん〟(家庭)という存在であり、その存在なしに子どもたちが社会的存在として成長できない」と考えたのが、この運動に参加した原点、ということです。

体験者、孤児たちが語り始めた

こうした運動の前進と社会状況の変化に、「背中を押されて」、それまで心を開かず、固く口を閉ざして、体験を語ろうとしなかった大人たちや孤児たちが語り、綴り始め、原水爆禁止禁世界大会など平和運動にも、自ら進んで参加するようになりました。
原爆孤児たちは、自らの体験を、1959年原水爆禁止世界大会参加者に訴えるため、「第5
回原水爆禁止世界大会に集まられたみなさんへ――原爆で親をうばわれた少年少女は訴える」という文集を作っています。
少年少女たちの多くは、自らの境遇、不幸を書くだけでなく、そこから目指すべき社会や若者らしい希望、展望を描きました。この文集を作ろうと考えた子どもたちと、そこへと導いた山口さんに、平井さんは「実践の中での偉大な教育者」としての姿を見出しています。そして、平井さんは、原爆孤児たちの取材を通じて、山口勇子さんの生き方を「教師という面から見つめ直した」と述べ、「彼女の生き方を、これからも追い掛けていきたい」と語りました。
原爆孤児たちは、「山口勇子さんのことを、懐かしそうに思い浮かべながら、話す」というのです。「人類と核兵器は共存できない、核戦争を阻止できるのは人間」と呼びかけ続け、核兵器全面今氏の運動の先頭に立った山口さんの原点は「広島であり、原爆孤児たち」でした。
平井さんは、「山口勇子さんや〝精神親たち〟が、原爆孤児たちの心に灯した平和の火は、ずっとずっと燃え続け、未来に引き継がれていく」と強調して、講演を終えました。
講演終了後は、民主的な医療機関の医師、西宮から来た養護学校の介助員、原水禁運動の活動家、元大学教員、明石の高校教員、団体職員らと、熱く交流しました。
講師レジメ

非核の政府を求める兵庫の会市民学習会                    2015.11.7

兵庫県保険医協会6階会議室

原爆孤児

「しあわせのうた」が聞こえる

大阪歴史教育者協議会常任委員
子どもと教科書大阪ネット21事務局長
大阪府吹田市立第一中学校教諭
平井 美津子

はじめに
東京大空襲を生き延びた母
身近な人の体験を普遍的なものにしていく作業を怠ってきた自分に教育者になってから気づく

1.広島と向きあうきっかけ

  • < >3年生「陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようなお考えになっておられますか」という質問に対しf、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」
    「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っています」(1975年10月31日、高橋紘編『昭和天皇発言録』)
  • < >< >2.広島から遠くはなれて
  • < >年 大江岩波沖縄戦裁判…沖縄戦の体験の聞き取りに没頭体験者のかさぶたをはがす作業…集団自決(強制集団死)の生存者・関係者やスパイ視虐殺の証言者
    から聞き取り
  • < >< >< >3.「精神養子運動」と出会う
  • < >被爆したときにほとんど物心もついていなかった子どもたち。広島では6000名を越える子どもたちが孤児になったといわれている。孤児たちにとって戦後こそが生きていくためのたたかいだった。『はだしのゲン』はそのことを物語っている。『火垂るの墓』のように孤児になったかわいそうな子どもたちというイメージが定着。これまで作られてきたドキュメンタリーなどもその域を出ないものが多い。
    ・ 平和運動としての「精神養子運動」
    広島で聞き取りを続けたのなかで、原爆孤児たちを助ける活動をした人々がいたことを知る。
    原爆孤児とは、①疎開中に原爆で両親を失った子ども、②疎開せずに親と一緒に広島市内にいて自らも被爆し、両親を失った子ども、③片方の親はいるが被爆などにより、困窮している子ども、などを指す。広島市及びその近郊にある11の孤児収容所と、市内の親せきや知人の家で養育されている原爆孤児の数は、推定1000名を超えた。しかし、この数は1954年の厚生省調査のものである。戦後すぐではもっと膨大な数だったに違いない。

広島には施設にも入れず、親せきや知己に引取られる子ども、戦争未亡人となった母親のもと、年老いた老祖父母のもとで十分な養育がなされず孤児同然のような暮らしを強いられる子どもたちも少なくなかった。こういった子どもたちに対して、子どもたちが最高十八歳になるまで毎月千円と愛の手紙を送り続けることによって、精神的な養子縁組を行うという「精神養子運動」が始まった。『原爆の子』の編著者であり自らも被爆者である広島大学の長田新がこの運動の発案者だ。彼は学生たちに「精神養子運動の仕事は慈善事業ではない。そういう方向に向いてはならない仕事だよ。平和運動のひとつとしてやりぬくのだよ」と言い続けた。
その運動を推進した広島子どもを守る会(1953年2月22日発足)の副会長として、実質的に運動を展開していったのが「おこりじぞう」の著者であり、後に原水協筆頭代表理事になる山口勇子だ。原爆被害によって「家庭」を失った子どもたちにとって必要なものは「かあさん」(家族)という存在であり、その存在なしに子どもたちが社会的存在として成長できないと考えたことが、この運動を始めることになったのではないだろうか。

  • < > 山口勇子も被爆者である。原爆投下時点29歳で三児の母だった。原爆で双方の両親を亡くし、自分の両親を自ら荼毘に付した。あえて原爆を避け続けていた勇子は恩師である長田新の誘いで精神養子運動に加わっていった。80名余りの精神養子たちに毎月精神親から送られてくるお金を渡すだけでなく、子どもたちの家庭を訪問し、時には学校での懇談会にも足を運んだ。家庭の楽しさを知らない子どもたちのためにクリスマス会や餅つき大会、菊人形見物なども企画した。しかし、子どもたちは笑わない。勇子は衝撃を受けた。「なぜ笑えないのか?彼らが見せる影はどこからきているのか。それを解き明かすこと。そして、子どもたち自身が自分で笑えない原因をいつかつきとめるしかないのだ」と考えるようになった。「笑わない子どものひそかな、というよりも一途な眼ざしが何を物語っているのか、その心の中にはいりこめない、ふがいなさが悲しかった。子らは、なぜ自分がこんなつらい子ども時代を過ごさなくてはならないのか、なぜおとうさん、おかあさんが小さい自分を残して死んでしまったのか、住むところも、何も彼も失ったのか、ナゼ、ナゼ、そういいたくて、その答が得たくて、一途な目をむけるのではないか。なぜ。その答を語らなくてはならない。」(『母さんと呼べた日』山口勇子、草土文化、1964年)5 再び原爆孤児を作るまい
    1954年第五福竜丸事件がおき、1959年から安保
    条約改定への反対運動が広がった。孤児たちにも社会情勢への意識が高まっていった。
    1959年に行われた第五回原水爆禁止世界大会には孤児たちは初めて「広島子どもを守る会」「再び原爆孤児を作るな」と書いたプラカードを持って、慰霊碑前まで平和行進団に加わった。8月5日、原水爆禁止世界大会で被爆者代表として孤児が訴えた。勇子たちの運動は慈善運動ではなく平和運動だ。そのことがここに表れてる。しかし、決して勇子たちは原水爆に反対することを孤児たちに強要をしなかった。むしろ孤児たちから自発的にそういった思いが沸き起こるのを精神親たちと見守ってきたのだ。原水禁大会への参加も孤児たちから自然に提案されて実現したものだ。
  • < >原爆孤児たちは自らの体験を1959年原水爆禁止世界大会に参加した人々に訴えるために「第五回原水爆禁止世界大会に集まられたみなさんへ ――原爆で親をうばわれた少年少女は訴える」という冊子文集を作っている。

彼らの多くは、自らの境遇の不幸を書くだけでなく、そこからめざすべき社会への希望や青年らしい展望を描いている。この文集を書くことを考えた子どもたちとそこに導いた山口勇子は、文章をつづり自分のこれまでを見つめさせることによって、自分たちがなぜ自分がこんなつらい子ども時代を過ごさなくてはならないのか、なぜ父や母が小さい自分を残して死んでしまったのか、住むところも、何も彼も失ったのか。その答を子どもたち自らに探らせようとしたのだ。

4.体験を語ること、聞くこと、継承すること
Ⅰ.体験を語る証言者・・・時代に背中を押されて
人は語るとき、今の自分が立っている場所からしか語ることはできない。そのために体験そのものに変わりはなくても、その語りは変化する。孤児の多くが、「できるなら、誰にも知らせずにおきたかったこと」と言う。その知らせずにおきたかったことを知らせようとしたきっかけは何なのか?孤児たちが語り始めるのは、ある意味、自分が置かれていた状況に一区切りついたときといえる。厳しい渦中にある状態では、どんな強靭な精神力を持ったものでも、客観的に時運の体験を語ることは困難だろう。だとすれば、体験を語るときと言うのは、体験者の中に語ることができる状況が生み出されたときといえるのではないだろうか。孤児たちがいつ、どのようにして語り始めるのだろうか。
①最も早い時期・・・ビキニ実験、冷戦の激化の状況下
1955年 「原爆から十年、私はこうして生きてきた」という手記を当時10歳から15歳で原爆により両親を失った青年たちから募集。十八人の青年が寄せる。→あゆみグループの誕生
青年たちが成長し、苦境の中でも一定の生活を送ることができるようになるなかで、自分の今までの生活とこれからの問題を誠実に記している。この手記を寄せた青年たちが作ったあゆみグループはその後、積極的に活動を展開し、機関紙「あゆみ」を作り、仲間で助け合いながら、平和を呼びかける運動をしていく。(1961年解散)

1959年  第5回原水爆禁止世界大会『原爆で親を奪われた広島の少年少女は訴える』14歳~21歳
原水爆禁止運動の高まりの中で、青年期を迎えた孤児たちが自ら体験を語り、綴っていった。その中で「日本が戦争を起さなければ」というように自分たちの境遇の原因を原爆投下だけに求めず、戦争を起したのは日本という国家だと言及するものもある。
あゆみグループの青年たちに導かれ、孤児だった子どもたちが自分たちの体験を綴り、それを読んでもらおうとしたのが『原爆で親を奪われた広島の少年少女は訴える』。
彼らは、誰かに訴えたい、読んでもらいたい、聞いてもらいたいという思いから、自分の戦争体験を書くようになったことがわかる。
一方で、語らなくなる(語れなくなる)人々もいる。
「被爆者なのにケロイドがないのか!」「原爆娘きたる!」…被爆者への心無い言葉が体験者を沈黙に追いやった事実もある。

②自分の背中を後押しする人に導かれて
1982年  山田寿美子は40歳を目前にして語る。医療ソーシャルワーカーとして被爆者支援を行い被爆者の生活支援を行う過程で被爆者の生活史の聞き取りの必然性を感じた寿美子は自らの体験を語り始める。その背中を押したのが原水協の先頭に立つ山口勇子の活動だった。

③現役をリタイアして
2001年 アメリカ同時多発テロをきっかけに語る山岡秀則。「アメリカでアフガンで親を亡くした子どもの姿が、あの日の自分に重なった」と言う山岡は、2002年4月広島・長崎の被爆者らとともにテロの犠牲者のための慰霊祭を行った。60歳

2012年 ピースボート乗船を機に語る石川律子。68歳
「私はずっと自分が証言をすることは考えていませんでした。私は原爆が投下されたときまだ1歳半。何にも覚えていません。その私が原爆を語ることはウソになります。だから、語ってきませんでした。私の原体験は原爆で吹き飛んだ窓ガラスの破片が柱に刺さってキラキラ光っていたことと、黒い雨が雨漏りして家の壁に残したいく筋もの黒いしみ、家の前の黒い水溜りでした。でも、原爆が落ちたときのことをはっきりと語れる人はどんどんいなくなっています。世代はうつりました。こうしちゃあおれん、やっぱり語っていかなければと思いました。」(原爆孤児の石川律子さん談)
石川律子は、原爆が落ちたときの記憶はほとんどない。彼女は小学校の教員として子どもたちに平和学習をするなかで自らの体験をほとんど語ってこなかった。しかし、戦争中の記憶はなくとも彼女は紛れもなく1945年8月6日の広島にいた。

④ここ数年になって語り出す体験者の増加。
紛れもなく安倍政権による歴史認識への不信と安全保障問題とリンクしているといえる。
「戦後70年だというのに、安倍政権になって戦争法案が強行可決しました。私は毎年語ってきまし
たからもういいかと思っていましたが、情勢が私をほっときませんでした。この夏はさまざまなと
ころで、私の体験を話す日々でした。」(原爆孤児の山田寿美子さん談)

Ⅱ.体験を聞き、継承する
・ 戦争体験は戦争中の話だけではなく、語り手が戦後を生き、語る(語れる)場所(時空間)にたどりつくくまでが体験ではないだろうか?・・・戦争(原爆投下)によって生まれた体験と戦後(原爆後)を生きてきた体験を含めて戦争(原爆)体験と考えたい
・ 聞いたことが聞いた人間の内面になにかの作用を起し、そこから聞いた人間が自らの言葉で記憶し、
記録し、語ることが大きな問題となる。その聞き取りが、何らかの形で記録し、記憶されることが二度と戦争を起こさない、再び戦争孤児を作らない、核兵器廃絶といった不戦反戦反核という理念に引きつがれていくときに、本当の意味で戦争体験者(被爆者)の体験が継承されたと言えるのではないだろうか。

原爆孤児をはじめ取材を受けてくださった方からは「私らが話すことで、二度と戦争孤児を作らない世の中になるんじゃったら」「集団的自衛権の問題とか出てきて、いつの間にやら戦争に向かっていっとるような気がして」と言われた。孤児たちの願いは「二度と戦争で孤児をつくらないために」ということだ。この願いこそが孤児たちの人生の柱になったと言えよう。
戦争で孤児になった人びとは七十歳を超えている。体験者からの聞き取りのために残された時間は少なく
なっている。全国で聞き取りをし、戦争の実相を伝える重要な記録としてまとめる必要を今回の取材を経て痛感した。戦争が終わっても終わらない戦争の傷跡を抱えて生きた人がたくさんいることを改めて子どもたちに伝えていく責任を感じる。そしてこのことを教材化していくのが、現場で子どもたちを教える歴史にかかわる教師の仕事ではないかと考える。戦争孤児の実態を知りそれを広めていくことは、再び日本を戦争に向かわせようとする勢力に対して異を唱える大きな問題提起になるはずだ。

私は、原爆孤児たちの取材の中で山口勇子の生き方を教師という面から見つめなおした。常に子どもたちを正面に据え、子どもたちが守られ育てられ尊重される社会を作りたい、そのために核兵器は絶対に許せないのだと活動した勇子。彼女の生き方をこれからも追いかけていきたいと思う。
山口勇子は、その後広島から東京に活動の場を移し、原水協筆頭代表理事として、核兵器全面禁止の先頭に立っていった。勇子の原点は広島であり、原爆孤児だった。「人類と核兵器は共存できない」「核戦争を阻止できるのは人間」と呼びかけ続けた。原爆孤児たちは、懐かしそうに勇子を思い浮かべながら話す。勇子や精神親たちが原爆孤児たちの心に灯した平和の火はずっとずっと燃え続け、未来に引きつがれていく。

一九四五年八月六日、広島は死にました。人も、木も、草も、鳥も、動物も。
けれど、ひとつだけ、のこったものがあります。人間の心です。その心は、すこしずつふくれあがり、きょうも、わたしたちに、よびかけています。
ヒロシマを、くりかえしてはならない。
世界じゅうに、ほんものの平和を。―――と。
(山口勇子「つるのとぶ日」の扉より、東都書房)

※ 精神養子運動と原爆孤児たちの証言などについては拙著『原爆孤児 「しあわせのうた」が聞こえる』(新日本出版社)を参照されたい。