伊藤正子さん講演「ベトナム戦争終戦40年 戦争の記憶の語り方と日本の原発輸出」

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2015年4月24日18時30分〜 元町館「黒の小部屋」
講師:伊藤正子さん

講演レジメも下記に転載いたしました。
2015年4月23日 市民社会フォーラム@元町映画館
ベトナム戦争終戦40年/戦争の記憶の語り方と日本の原発輸出

拙著「戦争記憶の政治学:韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題と和解への道」平凡社、2013年より

伊藤正子(京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科)

[はじめに]
韓国の進歩的週刊誌「ハンギョレ21」が1999年、韓国軍がベトナム戦争中に複数の虐殺事件を起こしていたことを報道
これらの虐殺問題をどう記憶し語ろうとしてきたか
韓国:社会を割った言論の対立、自国の負の歴史を直視することの困難さ
負の歴史を明るみに出して記憶し未来の平和のために役立てようという韓国NGOの活動がベトナムで果たした和解の役割について
ベトナム:ベトナム戦争についての歴史認識のあり方が公的記憶に強く支配され、「公的記憶にならない記憶」がこぼれ落ち、経済援助の獲得が優先され、国際関係に影響を与えない範囲でしか真実を語れない状況

[ベトナム戦争の語り方とその背景]
韓国…ベトナム参戦は武勇伝として語られていた
ホーチミン市の大学院に留学していたク・スジョンが、1999年週刊誌『ハンギョレ21』で虐殺事件を多数起こしていたことを継続的に報道
→記憶の混乱
事実解明とベトナムへの謝罪を要求するNGO(ノグンリ問題報道と時期が重なる)
ベトナムキャンペーン(コ・ギョンテ記者)
⇔「正義の戦争」と主張する保守派、参戦軍人によるハンギョレ新聞社襲撃事件

参戦軍人の3タイプ
1. 強烈な反共主義者、ベトナム戦争は「正義の戦争」だったと信じる人たち
(ハンギョレ新聞社を襲撃した人々など)
2. 最も多いタイプ…ベトナム戦争参戦は誇り、「虐殺」と言われるのは不愉快
一方で偶然に「虐殺」事件は起こりえたかもしれないと考えているような人たち
政治的運動を過激に行う意志はなし
3. ほんの数人…自分たちがベトナムで行ったことを反省、謝罪し、未来や平和のための教訓として生かそうと考える

ベトナム…各級行政組織(国家、省、県、村)、地域、時間の経過によりバラバラの対応
『ハンギョレ21』キャンペーン開始時…生き残りの人たちが悲惨な状況を素直に証言
ベトナムの全国紙も『ハンギョレ21』の報道を追う
ベトナム国家はしばらくして韓国の世論が割れていることを認識
『ハンギョレ21』の記事→ロイター通信が国際的に報道
→国家にとり、虐殺の記憶の語りが県レベルを超え国民に共有されるのは望ましくない
外交・経済交流に悪影響を及ぼす事態を懸念

∵「過去にフタをして未来へ向かおう」というスローガン
歴史上被害を及ぼした全ての国に対し賠償を求めず未来の関係を重視
⇒共産党の公的記憶に貢献するものだけが、国家レベルでは「歴史」となることに帰結
⇒国家関係・国家利益を優先し、現政権への貢献がなかった戦争被害者の声を封殺
多様な記憶の表明を許容せず、弱い立場の自国民を犠牲に

[韓国軍駐屯地域の省ごとの事例]
事例①クアンナム省ハミ村
1968年2月:135人の村人(ほとんどが高齢者、女性、子供)が虐殺に遭う
1999年:元軍人グループが訪問、25000ドルを寄付、村に追悼碑を建立
2000年11月:追悼碑完成、しかし裏面の詩に、元軍人たちと大使館員が憤慨
文章の修正を韓国政府を通じて要求
韓国大使館→ベトナム政府→クアンナム省→ディエンズオン社に圧力
ベトナム政府は韓国ODAによるクアンナム省中央総合病院建設への影響を懸念
村人は蓮の絵柄を彫った石版で裏面を覆い「フタ」をする

ハンギョレの記事を書いたク・スジョンとNGOの活動
→虐殺の生き残りや家族を殺された人たちが少しずつ癒される

事例②フーイエン省の韓越平和公園(2003年完成)
現金収入の面で貧しい省…行政による追悼碑建設、慰霊祭、犠牲者名簿作成など無し
→韓国NGOとハンギョレ新聞社:「ごめんなさいベトナムキャンペーン」による寄付で平和公園を建設する計画→意図どおりにいかず、数年で劣化、壊れかけたままに
背景:負の歴史の記憶をめぐる認識のズレ
韓国NGO:自分たちの負の歴史を表現して記憶し、二度と繰り返さないよう未来の平和のために生かすことは極めて重要、公園はその象徴
生き残りの人々や遺族にお詫びの気持ちを示し、かれらの癒しの場所にしたかった
ベトナム国家:韓国NGOが公園内に建設申請していた平和歴史館建設を不許可
公園がソンミ博物館(公園)のように国際観光客を呼び込む状態になると、韓国政界・経済界の機嫌を損ねかねない
維持費だけがかさむ公園は何の利益にもならない

事例③ビンディン省テイヴィン社の虐殺を描いた追悼碑
韓国軍による虐殺のうち最大の「ビンアンの虐殺」事件現場に建てられた追悼碑
肩に白い猛虎のマークを付けた韓国兵がベトナム農民に襲いかかる大きな絵
毎年県主催の大規模慰霊祭、虐殺をうたった民謡
→省・県レベル以下にとどまる記憶の語りは、問題化しない。
省・県は国家と異なる独自の動きにより、住民たちの不満の緩衝材の役割
国家は、外交問題になる可能性がない限りは、「亡くなった肉親や祖先を残された者たちが手厚く供養するのは当然である」という地元の論理を黙認

[報道後10年後の軋轢]
韓国国会の議決
1998年金大中大統領が明瞭な形でベトナムに謝罪、その後ODAによるベトナム中部への投資が増大
貿易規模も2003年…30億7000万ドル、2013年282億6000万ドル

両国関係を「戦略的協力パートナーシップ」に格上げするため、2009年10月李明博大統領(当時)の国賓としての訪問計画
→直前に「ベトナム戦争参戦勇士は世界平和の維持に貢献した」という法律の中の文言にベトナム政府が異議:「侵略者は『未来志向』の言葉を使いたがり、過去を忘れようとする」小泉純一郎首相(当時)の参拝で中韓の反発を招いていた靖国神社問題をあげ、「日本を批判している韓国なら、我々の考えが理解できるだろう」と韓国側を説得。
⇒日本の公的歴史認識をベトナムも批判的に見ていることに留意すべき

このニュースはベトナムでは報道されず
経済的利益を優先、「過去にフタをして未来へ向かおう」と呼びかけ、自国の被害者住民たちに妥協や忍従を強いることの多いベトナム国家
しかし、自分たち自身の「誇り」「正統性」に抵触する問題として立ち現れてきた時には、我慢ならず、声を上げる

日韓・日中と異なり、韓越両政府は互いの異なる公定記憶には目をつぶり、根本的な解決をめざすことなく問題を葬り去った

[阻止されたベトナム人記者の韓国派遣計画]
14のNGOからなる「ベトナム戦争真実委員会」…ソウルに平和博物館設立
ベトナムのマスコミ関係者や作家などを韓国へ招請する計画
戦友会が建設した「ベトナム参戦碑」や「ベトナム参戦勇士出会いの場」など見学予定
⇒ベトナムでは、外交部(外務省)まで上がって問題化
「記憶の闘争」状況をベトナムに伝えようとした韓国NGOの活動を阻止

[おわりに]記憶の戦争-和解への道とは
ベトナムはなぜ「過去にフタ」をするのか
・多数の国々との戦いの歴史、しかし現在は経済援助が必須(「200万人餓死」事件)
・南ベトナム政権側についていた人々が、数多く中南部に現在もいる
⇒「戦争の輝かしい勝利の記憶」は全ての国民に公的記憶として受けいれられているわけではない、過去の掘り起こしは彼らの不満を大きくさせる可能性あり
⇒国民に物質的豊かさをもたらす経済発展こそが共産党存続のために必要
「国家利益」を優先し、現政権への貢献がなかった戦争被害者の声を封殺

切り捨てられた記憶:スローガン「過去にフタをし未来に向かおう」がもたらしたもの
「過ぎたことを水に流す」のは、こと戦争に関する限りもはや美徳ではなく、「平和のために<過去>を忘れない」ことこそが美徳であり、価値観である[小菅2005:205]。
→ベトナム国家の方針は、過去を教訓に未来に生かそうとする韓国の民間の動きとも齟齬
ハミ村の犠牲者…革命に功労があったわけでなく、堀り起こしても得にならない「歴史」
⇔公定記憶は、北の正規軍や解放民族戦線の輝かしい勝利の記憶
∴韓国軍による虐殺の記憶は、ベトナムではナショナリズムと結びつかない
…日韓や日中の関係と最も異なる
国家が記憶を解釈し、ナショナルヒストリーとして構成すると、都合のよいものだけが記憶され、切り捨てられる記憶が出る
→韓国のNGOが外部者として別の回路で国家に包摂されない戦争の多様な記憶を維持
ク・スジョンらは、韓国のナショナルヒストリーに風穴、「国賊」呼ばわりされ、
ナショナルヒストリーの占有を邪魔されたくないベトナム共産党からも厄介者扱い
しかし、ベトナムの「公的記憶にならない記憶」をすくい上げ、多様な記憶を維持し、記憶の当事者たちの癒しに貢献
韓国の民間の地道な活動が、記憶を新たにすることで、赦しと和解を生んできた過程

日本の場合を考える
被害者としての記憶が大きく残り、加害の記憶が抜け落ちる
「米国との戦争に敗北した」→アジア(中国)との戦争に負けたという意識は希薄
戦争責任に比べ、それに先行する「植民地責任」は一層無自覚のまま
冷戦の影響で米国のアジア戦略が変化→被害を受けたアジア諸国への配慮より、日本の復興と政治的安定が重視される(戦後賠償も「経済協力」に化けた)
1990年代に起こった負の歴史にも目を向けようという動き(河野談話、村山談話)
→多くの国で起こった動きだったが、「日本だけ」と思い込み、反動を生む
中韓との間に横たわる「戦争責任」「植民地責任」の問題が解決できないままの日本

ク・スジョンら韓国NGOの活動から学び取るべきなのは、個々人の記憶の重要性を認識し、その掘り起こしと積み重ねによって、ナショナルヒストリーからはじき出されてしまっている様々な記憶を丹念につないでいくこと、それらの記憶こそ、記録していかねばならない真実を含むものではないか。

[参考文献]
日本語<書籍・論文>
朝日新聞取材班[2008]「2.韓国、ベトナム参戦」『歴史は生きている――東アジアの近現代がわかる10のテーマ』朝日新聞出版、218-225頁。
伊藤正子[2010]「韓国軍のベトナム派兵をめぐる記憶の比較研究――ベトナムの非公定記憶を記憶する韓国NGO」『東南アジア研究』Vol.48、No.3、294-313頁。
今井昭夫[2000]「ドイモイ下のベトナムにおける『戦争の記憶』」『Quadranteクァドランテ[四分儀]』 No.2、50-66頁。
今井昭夫[2008]「ベトナム戦争のコメモレーションに関する研究について――マラーニー論文へのコメントにかえて」(特集I:死者を悼むことと想起の文化-靖国・ベトナム・9.11)『Quadranteクァドランテ[四分儀]』No.10、33-46頁。
今井昭夫[2010a]「歴史の力か、歴史の重荷か――ベトナムにおける『戦争の記憶』の構図」、今井昭夫・岩崎稔編『記憶の地層を掘る――アジアの植民地支配と戦争の語り方』御茶ノ水書房、35-68頁。
今井昭夫[2010b]「あとがき」、今井昭夫・岩崎稔編『記憶の地層を掘る――アジアの植民地支配と戦争の語り方』御茶ノ水書房、259-266頁。
金賢娥 ( キム・ヒョナ ) (安田敏朗訳)[2009]『戦争の記憶 記憶の戦争――韓国人のベトナム戦争』三元社。
金栄鎬 ( キム・ヨンホ ) [2005]「韓国のベトナム戦争の「記憶」――加害の忘却・想起の変容とナショナリズム」『広島国際研究』第11巻、1-30頁。
( クォン・ ) ( ホ ) ( ニク ) (堀田義太郎訳)[2007] 「ヴェトナムにおけるアメリカ戦の亡霊」大越愛子・井桁碧編著『戦後・暴力・ジェンダー2 脱暴力へのマトリックス』青弓社、239-284頁。
小菅信子[2005]『戦後和解――日本は<過去>から解き放たれるのか』中公新書。
早乙女勝元[1993]『ベトナム“200万人”餓死の記録:1945年日本占領下で』大月書店
S.ハーシュ著(小田実訳)[1970]『ソンミ――ミライ第四地区における虐殺とその波紋』草思社。
バオ・ニン[2002]「薄れない戦争の記憶」(特集1「記憶と歴史(3)シンポジウム 戦争の悲しみ・戦場の記憶 ハリウッドではないベトナム戦争」)『Quadrante』No.4、9-14頁。
ハンギョレ新聞社(川瀬俊治・森類臣訳)[2012]『不屈のハンギョレ新聞――韓国市民が支えた言論民主化20年』現代人文社。
韓洪九 ( ハン・ホング ) (高崎宗司監訳)[2005]『韓洪九の韓国現代史II――負の歴史から何を学ぶのか』平凡社

日本語<新聞記事>
朝日新聞2001年3月17日朝刊14版1頁「被害と加害。誇りと汚点。自国中心では見えない歴史をどう直視するか。」シリーズ『日本の予感2001年のナショナリズム』①(大久保泰、伊藤厚史、福島申二)

ベトナム語
Huyện Điện Bàn [1995] Những vụ thảm sát dã man của Mỹ ngụy và chư hầu trên đất Điện Bàn, Ban điều tra hậu quả chiến tranh huyện Điện Bàn. (内部資料)
Ku Su Jeong[2000] Sư can dự của quân đội Hàn Quốc trong cuộc chiến tranh của Mỹ tại Việt Nam, Luận án thạc sĩ sử học, Đại học quốc gia thành phố HCM.
Ku Su Jeong[2008] Mối quan hệ Việt – Hàn trong và sau chiến tranh của Mỹ tại Việt Nam, Luận án tiến sĩ lịch sử Việt Nam, Đại học quốc gia thành phố HCM.
著者名無し [2005] Nhìn lại Sơn Mỹ, Bảo tàng tổng hợp tỉnh Quảng Ngãi, in lần thứ 4.
Tài liệu của huyện Sơn Tịnh, tỉnh Quang Ngãi.(内部資料)
Sở Văn hóa thông tin, Bảo tàng Tổng hợp Bình Định[2005] Tập Ảnh Di tích vụ thảm sát Bình An xã Tây Vinh – huyện Tây Sơn – tỉnh Bình Định. (内部資料)
Tài liệu Nghiên cứu, Sưu Tầm Di tích tội ác ở Bình An[?](内部資料)
Sở Văn hóa và Thông tin tỉnh Bình Định & Bảo tàng Tổng hợp[1986] Tài liệu về vụ thảm sát Bình An năm 1966(内部資料)

韓国語<書籍・論文>
国防部[1971-1979]『派越韓國軍戰史』第1卷~第8卷、国防部。
金成旭編輯[2008]『大韓民國枯葉劑(15年)戰友會10年史』大韓民國枯葉劑戰友會.
윤충로[2010]「한국의 베트남전쟁 기념과 기억의 정치」『사회와 역사』제86집, pp.149-262.
이용준[2003]『베트남, 잊혀진 전쟁의 상흔을 찾아서』조선일보사.
채명신[2006]『채명신 회고록 베트남전쟁과 나』팔복원.
채명신, 양창식, 박경석, 이선호[2002]『베트남전쟁과 한국군』베트남참전전우회.
Pham Dieu Ngoc [2006]『베트남전쟁과 관련된 한국단체들의 활동과 베트남의 반응』성공회대학교 NGO대학원, 석사학위연구보고서.

英語
Baldwin, Frank & Jones, Diane & Michael[1975] America’s rented troops: South Koreans in Vietnam, American Friends Service Committee.
Inspector General, Military Assistance Command Vietnam[1971] Report of Investigation Concerning Alleged Atrocity Committed by ROK Marines on 12 February 1968 (Cofs Action 4984-69), Record Group 472, Box 53.
Kim Hyun Sook[2001] “Korea’s “Vietnam Question”:War Atrocities, National Identity, and Reconciliation in Asia”, East Asia Cultures Critique, Vol.9, No.3, pp622-635.
Kwon Heonik[2006] After the massacre: Commemoration and consolation in Ha My and My Lai, California, University of California Press.
著者名無し[2005]A look back upon Sơn Mỹ, Quang Ngai General Museum.
Quality Paper The Hankyoreh, 出版年無し, 会社紹介冊子

ベトナム語<インターネット記事>
“Công viên Hòa Bình Việt – Hàn xuống cấp nghiêm trọng”, Báo Phú Yên online, 12-9-2007
http://www.baophuyen.com.vn/Van-nghe-93/2205105605105605245